長谷堂城の戦いとは? わかりやすく解説

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長谷堂城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 14:19 UTC 版)

最上義光」の記事における「長谷堂城の戦い」の解説

わずか350名の最上兵が駐屯する畑谷城の守将・江口光清は、兵力集中のため撤退するようにという義光の命令無視し籠城した。光清の器量惜しんだ兼続は「降伏すれば名誉ある処置をとる」と勧告したが、光清はこれを拒否し抗戦した。光清父子率いられ守兵はよく持ちこたえ、上杉軍に1,000名に近い死傷者を出す損害与えるも、衆寡敵せずまもなく全滅畑谷城陥落した続いて上杉軍山形城の要である長谷堂城攻撃するが、守将・志村光安率いる1,000名は上杉勢相手によく城を守り鮭延秀綱らの奮戦もあって敵将上泉泰綱討ち取るなど多く戦果挙げた。他にも上山城里見民部湯沢城楯岡満茂最上勢の守将は善戦し上杉勢小野寺勢相手に城を守り抜いた。 義光は嫡子・義康を派遣し、甥・政宗援軍要請したこの頃政宗は、南部利直最上領に援軍として向かったことを知ると、和賀忠親煽動し一揆を起こさせ領土拡大狙っていた(岩崎一揆)。政宗留守政景率いる約3,000援軍派遣したが、最上領で戦局見守るに留まった。一説によれば政宗重臣片倉景綱から「山形城落城するまで傍観し疲弊した上杉勢討ち漁夫の利を得るべし」との献策受けていたが、母・義姫山形城内にいることを考慮しその策を却下したといわれている。 9月29日上杉軍関ヶ原の戦い敗報聞いて長谷堂城包囲解き米沢城退却した西軍敗戦の報を聞いた義光は、家臣・堀喜吽の制止に「大将退却してどうやって敵を防ぐのか!」と反論し先頭立って上杉勢追いすがった。しかし、敵の一斉射撃襲われ、堀喜吽は戦死し、義光自身も兜に被弾してしまう。結局最上軍あと一歩のところで兼続取り逃がしてしまった。兼続退き際見事さには、敵である義光も賞賛惜しまなかったという。 上杉軍退却する最上勢は逃げ遅れた上杉勢素早く追撃し谷地城西村山郡河北町)に籠る尾浦城下秀久下した上杉氏和平交渉向けて動いている間に、下秀久先手として庄内地方進攻短期間のうちに十五里ヶ原の戦い失った旧領奪還成功した。 義光は上杉軍撃退した功により、攻め取った庄内地方などの領有認められ上杉領である置賜郡を除く現在の山形県全土由利郡佐竹氏との領土交換により、当初所有していた雄勝郡平鹿郡引き換えた)計57万石領し出羽山形藩初代藩主となったまた、戦前交渉失敗秋田氏勢力増大することを恐れた戸沢氏厭戦態度から、戦後に義光は秋田実季東軍裏切ったとする讒訴家康側に述べ、これが実季を常陸国移封させる要因一つともなった

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長谷堂城の戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 04:30 UTC 版)

慶長出羽合戦」の記事における「長谷堂城の戦い」の解説

一方直江兼続畑谷城落としたあと、長谷堂城近く菅沢山に陣を取り長谷堂城包囲した長谷堂城山形盆地西南端にある須川支流本沢川西側位置し山形城からは南西約8キロのあたりに位置する山形城防衛において最も重要な支城であったまた、この時点最上川西岸地域および須川西岸において唯一残る、最上氏側の拠点となっていた。つまり、長谷堂城落ちれば上杉軍後顧の憂いなくなり須川挟んだ攻防経て山形城攻城戦取りかかることは明らかだった9月15日最上義光嫡男最上義康当時北目城(仙台市太白区)にいた伊達政宗派遣し援軍依頼した伊達氏重臣片倉景綱両家を争わせて疲弊させるべきであるとして諌めたのに対し政宗は「一つ家康のため、一つ山形城にいる母上義姫保春院)のために最上見捨てるわけにはいかない」(『治家記録』)と述べ16日書状にて政宗叔父留守政景救援派遣することを決める。 この時、長谷堂城最上氏重臣志村光安以下1000名が守備し攻め手直江兼続指揮執る上杉軍1万8000人。通常攻城戦必要な兵数城方の3倍(確実を期すなら10倍とも)と云われているが、その点上杉軍は十分過ぎるほどの兵力持って攻城戦あたった9月15日兼続大軍背景力攻め敢行。しかし志村寡兵ながらも防戦し、9月16日には200名の決死隊と共に上杉側の春日元忠軍に夜襲仕掛ける。これにより上杉勢同士討ち起こすほどの混乱に陥り、志村兼続のいる本陣近くまで攻め寄って250人ほどの首を討ち取る戦果挙げた。この時の鮭延秀綱戦いぶりには、直江兼続からも「延が武勇信玄謙信にも覚えなし」と言わしめ、後日兼続から褒美遣わされたという。 9月17日兼続春日元忠命じ、さらに城を攻め立てた。しかし、長谷堂城周り深田になっており、人も馬も足をとられ迅速に行動できない。そこへ最上軍一斉射撃浴びせて上杉軍散々に撃ちつけた。業を煮やした兼続は、長谷堂城付近刈田狼藉行い城兵挑発するが、志村挑発には乗らず逆に兼続対し笑止」という返礼送ったとされる9月21日には、伊達政宗派遣した留守政景隊3千の軍勢白石から笹谷峠越えて山形城東方小白川)に着陣し、9月24日には直江兼続本陣から約2km北東須川河岸沼木布陣する。また、最上義光9月25日山形城出陣し稲荷塚布陣した。ここにおいて一時戦況膠着するものの、9月29日上杉勢総攻撃敢行長谷堂城を守る志村光安はなおも善戦し上杉軍武将上泉泰綱討ち取るという戦果挙げた

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