長期間の運用要因と運用末期における社会的評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 03:00 UTC 版)
「東急デハ3450形電車」の記事における「長期間の運用要因と運用末期における社会的評価」の解説
デハ3450形・3500形・3650形の3形式計78両は、1930年代から1940年代に製造されて後50年以上に渡り他社譲渡を生じることなく、ほぼ全車が1980年代まで運用された希有な存在であった。日本に限らず先進国の大都市近郊路線で、1980年代に至るまで戦前製の電車が大量に使用されたことは珍しい。他にはアメリカのシカゴサウスショアラインやドイツのベルリンSバーン等といった例がある。 鉄道会社としての経営方針からみれば、本社の不要照明の節約や裏紙使用の奨励など、社内において徹底した物資節制を働きかけた“東急の大番頭”(五島昇曰く“ケチ副”)こと田中勇や、8000系のような、通勤電車は無駄な装飾を廃し前面は切妻であるべき等のポリシーで知られる横田二郎等、当時の東急首脳の徹底した節制主義の意向が大きく作用しているとされるが、具体的な要因としては以下のような点が挙げられる。 もともと頑丈な構造であった(ただし末期には一部車両で経年劣化による台枠垂下も生じていた)。 車体構造・性能が東急電鉄の実情に非常に良く合致したものであった。とりわけ主電動機・主制御器はじめ主要機器が戦前における優秀品で揃えられており、かつ互換性・信頼性が高く、安定した装備であった。さらに前述の更新修繕をはじめ、時代の変化に合わせ度重なる改造が実施されていた。 新路線(田園都市線・新玉川線=当時)の開業と、その後の開発に伴う爆発的な旅客需要増に対する車両増備に追われ、旧型車の置き換えが後回しにされる傾向があった。 東横線運用を退いた後も、自社内に目蒲・池上線などの、運用に適切な路線が存在した。 当初3450形→3500形・3650形の順に淘汰し、これらの中から地方私鉄譲渡は積極的に行い、5000系はその後淘汰するという計画であったが、1977年の長野電鉄以降、地方私鉄からは一部を除いて5000系に譲渡希望が集中し、さらに3000系でも戦後生産された3700系が名古屋鉄道に全車譲渡されたこともあって、結局5000系を含めた戦後型と戦前型の淘汰時期を差し替える事態となっていた。 このように寿命を長らえ、その後登場した5000系等の“前衛的”高性能車群、さらには7600系インバータ車に伍して運用された本形式であったが、さすがに1980年代ともなると同時期に運用されたデハ3500形・デハ3650形も含めた戦前型系列は、大規模な更新を行ったとはいえ経年劣化や接客設備の陳腐化は否めなかった。加えて、東急においても6000系ステンレスカー以降全て空気ばね台車となった一方で、これら3形式は乗り心地の面でも起動時のショックが大きいこと、吊り掛け駆動の騒音が他社吊り掛け車よりも激しいこと、旧型台車は特に高速走行時のピッチングが酷いことなど、特有のウィークポイントが存在した。また他社とのサービス水準比較として「冷房化率」という数値が報じられるようになったこともあり、乗客からの不評は高くなっていった。 東京都内を見渡しても、「板張り電車」こと東武7800系等と共に、これら旧型車はもはや誰の目にも時代離れした古さが際立つ存在となっており、コミックソング「目蒲線物語」(作詞/作曲/歌・おおくぼ良太、1983年発表。俗に「目蒲線の歌」とも呼ばれる)で、優等生的な冷房付き新型ステンレスカーが走りまわる中、冷房もない草色の古ぼけた3両編成をあたかも出来の悪い「主人公」に例えて、コンプレックスに悩む「主人公」を擬人的かつ貧乏くさく歌い上げる歌詞が世間から受けたほどであった。さらに池上線を舞台にした歌曲『池上線』(作曲/歌・西島三重子、作詞・佐藤順英、1976年発表)でも、その歌詞には当時同線を走っていたデハ3450形などの車両の古さや状態の悪さを思わせる箇所があり、東急がそれらを否定するコメントを出す事態となった。
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