長屋王政権
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養老4年(720年)8月に藤原不比等が薨去すると、翌養老5年(721年)正月に長屋王は従二位・右大臣に叙任されて政界の主導者となる。なお、不比等の子である藤原四兄弟(武智麻呂、房前、宇合、麻呂)はまだ若く、議政官は中納言としてようやく議政官に列したばかりの武智麻呂と参議の房前のみであったため、長屋王は知太政官事・舎人親王とともに皇親勢力で藤原氏を圧倒した。長屋王は政権を握ると、和銅年間から顕著になってきていた公民の貧窮化や徭役忌避への対策を通じて、社会の安定化と律令制維持を図るという、不比等の政治路線を踏襲する施策を打ち出す。 養老5年(721年)3月:水害と干魃に起因する貧窮対策として、平城京および畿内の公民に対して1年間の調を免除し、他の七道諸国の公民に対しても同様に夫役を免除する。 養老5年(721年)6月:前年度発生した隼人や蝦夷の反乱鎮圧のための兵役の負荷軽減対策として、陸奥と筑紫の公民に対して1年間の調・庸を免除する。戦場で死亡した者は、その父子ともに1年間の租税を免除する。 養老6年(722年)2月:諸衛府の衛士の役務期間が長すぎて逃亡が相次いでいたことから、勤務年限を3年とし必ず交替させる。 養老6年(722年)閏4月:陸奥按察使管内の公民の調・庸を徐々に免除して、農耕と養蚕を勧奨して、馬と弓を習得させる。辺境を助けるための租税として麻布を徴収することとし、蝦夷に与える禄に充当する。陸奥国出身で朝廷に仕えている者(衛士・資人・采女など)は全員本国に帰国させてそれぞれの地位に戻す。 養老7年(723年)4月:日向・大隅・薩摩の各国は兵役の負荷が重く、兵役の後に飢饉や疫病が発生していることから、3年間租税を免除する。 また、長屋王政権における重要な民政策として開田策がある。 養老6年(722年)閏4月:秋の収穫後に10日を限度として人民を賦役させ、官粮や官の調度を活用して、諸司の裁量のもとで良田100万町歩の開墾を進めることとし、故意に開墾を進めない場合は官職を解任する(百万町歩開墾計画)。 養老7年(723年)4月:人口の増加に伴う口分田の不足に対応するために、田地の開墾を奨励することとし、新たに田地を開墾した場合は三代目まで、田地を手入れして耕作できるようにした場合は本人の代のみ、それぞれ田地の所有を認める(三世一身法)。 この頃、律令制支配の浸透によって蝦夷や隼人では反乱が頻発していたが、長屋王は朝廷の最高責任者として機敏な対処を行い、速やかな反乱の鎮圧を実現している。 養老4年(720年)9月:蝦夷の反乱により陸奥按察使・上毛野広人が殺害されると、連絡を受けた翌日には鎮圧に向けて遠征させるために持節征夷将軍・多治比県守と持節鎮狄将軍・阿倍駿河らに節刀を授けた。 神亀元年(724年)3月:海道の蝦夷の反乱により陸奥大掾・佐伯児屋麻呂が殺害されると、1ヶ月ほどの間に征討軍として藤原宇合を持節大将軍、高橋安麻呂を副将軍に任じ、さらに坂東九ヶ国の兵士3万人に軍事訓練を行った。 長屋王政権における政策の特色として、上述のような律令制の維持を目的とした公民に対する撫育・救恤策のほかに、官人に対する統制強化・綱紀粛正策も実施されている。 神亀4年(727年)2月:諸司の長官に対して、各官司の主典以上の官人について、勤務状況の良い者と悪い者(最上、次上、中等、下等の4段階)を選び、その名前を奏上することを命じる。同年3月に報告が行われ、最上・次上と判定された官人に対して絁が与えられ、下等と判定された者は官職を解かれた。なおこの際、長屋王自身は二位の最上で絁100疋と、次に多い正三位(大伴旅人・藤原武智麻呂ら)の最上である40疋の倍以上が与えられたと見られる。 神亀5年(728年)3月:これまで外位の対象外であった中央官人に対しても外五位の叙位を行うこととし、その位禄と蔭位の位階について定めた。同年5月に中央官人に対して実際に外五位の叙位を実施した。
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