銀行家と執筆活動
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入行した日本銀行では、行員の自主運営で文芸誌『行友』、従業員組合の雑誌『花の輪』、営業局の『わかあゆ』、日銀退職者ら「旧友会」による『日の友』などが発行されており、吉田は新人行員時代から行内文芸誌『行友』の編集委員を務め、その後も編集長として続けた。吉田が最初に配属された統計局の上司には、河合栄治郎門下の人物でアララギ派の歌人でもあった外山茂がおり、吉田の相談相手となっていた。 吉田の勤務地は、1957年(昭和32年)から約1年間のニューヨーク駐在を経験したほか、大阪支店調査役などを経て、1965年(昭和40年)10月から青森支店長、1970年(昭和45年)10月から仙台支店長、1973年(昭和48年)10月から国庫局長などを歴任し、1975年(昭和50年)11月には監事にまで昇進した。 こうした銀行家としての職務と並行し、『戦艦大和ノ最期』の列伝的な作品「臼淵大尉の場合――進歩への願い」(1973年)や、太田孝一少尉(実名は中谷邦夫)を題材にした「祖国と敵国の間」(1974年)を文芸誌『季刊藝術』にそれぞれ発表。1977年(昭和52年)2月には文京区千石の自宅が原因不明の火事により全焼してしまうハプニングに見舞われたものの、その年の11月には書き下ろしで『提督伊藤整一の生涯』を刊行した。 また、吉田は学徒出陣で戦没した学徒兵らの言葉をしばしば引用しながら、彼らの胸の内を同じ世代の生き残った人間として痛恨の思いとして受け止め、自身の随筆で発表する活動を続けた。 私はいまでも、ときおり奇妙な幻覚にとらわれることがある。それは、彼ら戦没学徒の亡霊が、戦後二十四年をへた日本の上を、いま繁栄の頂点にある日本の街を、さ迷い歩いている光景である。(中略)彼らが身を以て守ろうとした“いじらしい子供たち”は今どのように成人したのか。日本の“清らかさ、高さ、尊さ、美しさ”は、戦後の世界にどんな花を咲かせたのか。それを見とどけなければ、彼らは死んでも死にきれないはずである。(中略)彼らの亡霊は、いま何を見るか、商店の店先で、学校で、家庭で、国会で、また新聞のトップ記事に、何を見出すだろうか。戦争で死んだ時の自分と同じ年頃の青年男女を見た時、亡霊は何を考えるだろうか。(中略)戦火によごされた自分たちの青春にひきくらべ、今の青年たちが、無限の可能性を与えられ、しかもその恵まれた力を、戦争のためではなく、社会の発展のために、協力のために、建設のために役立てうることをしんから羨み、自分たちの分まで頑張ってほしいと、精一杯の声援を送るであろう。と同時に、もしこの豊かな自由と平和と、それを支える繁栄と成長力とが、単に自己の利益中心に、快適な生活を守るためだけに費やされるならば、戦後の時代は、ひとかけらの人間らしさも与えられなかった戦時下の時代よりも、より不毛であり、不幸であると訴えるであろう。 — 吉田満「戦没学徒の遺産」 その他、吉田は戦中派・キリスト者としての数多くの随筆や評論を発表しながら、戦中・戦後の日本の問題点や非戦への思いを訴え、晩年には経済団体や金融機関に招かれて講演活動も行ない、55歳となった1978年(昭和53年)7月に、『日本銀行職場百年』の編集委員を委託された。キリスト者の吉田はその年の4月の随筆で以下のような思いを綴った。 肉の重荷を負った人間は、美しい抽象的な「平和」そのものを、生きることはできない。それぞれにあたえられた役割を果たしながら、「平和」を求めて自分を鞭打つことだけが、許されているのである。 — 吉田満「青年の生と死」
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