銀行家への転身
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2002年4月より経済同友会副幹事に就任していたが、2003年5月に経営難に陥りおよそ2兆円の公的資金を申請する必要ができたりそなホールディングスの会長として、牛尾治朗(ウシオ電機会長)に白羽の矢を立てられた。JRグループに残ったままでいれば東日本キヨスク社長に就任できること、りそなの負債がどれだけのものであるか不明であることなどから、相談した知り合いからはやめたほうがいいとのアドバイスを受けたが、この話を受け、2003年6月25日、りそなHD会長に就任した。就任当初は「鉄道マンに銀行経営ができるのか」とその手腕を疑問視する声もあったという。就任後は窓口の開設時間を午後3時までではなく延長し、窓口での待ち時間をゼロにしようと尽力した。 2004年3月期の決算では注入された公的資金約2兆円を使い切るかたちで不良債権の大幅な処理を断行して1兆7700億円の特別損失を計上し、約1兆4000億円の大幅な赤字となった。その後は着実に資本の増強などを行い2005年3月期決算では厚めに積んだ貸倒引当金の戻り益もあって一転約3800億円の大幅黒字とし、結果的には3兆円規模の公的資金投入の返済に、細谷の経営改革が功を奏し目処をつけた。 2009年にりそな銀行の会長の代表権を返上。HDについても2012年代表権を返上し、取締役兼執行役会長に退いた。 2012年11月4日に67歳で死去。
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