赤羽飛行機製作所
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「医者の工業」として注目された岸一太は、製鉄の研究中に富山県剱岳でモリブデンを発見し、それをきっかけに医院の隣りに「富山工業所」を作り、熔鉱炉を築いてモリブデン・スチールを鍛造、その利用として自動車や飛行機製作に目をつけ、後藤新平と提携して麹町内幸町に「東京自動車製作所」を作り、病院構内にも飛行機製作の工場を建てた。1915年に飛行機用発動機製作に成功し、後藤新平はじめ、田中舘愛橘、井上仁郎、久保田政周、波多野承五郎、朝吹英二ら50人余りを招いて披露した。 発動機はフランスの水冷式ルノーV型七〇馬力を改良したもので、国産は難しいと思われていた発電機や曲柄軸、プロペラなども製作した。 同年、京都伏見の小畑常次郎製作のモーリス・ファルマン式機体(以下モ式)に岸の発動機を搭載し、八日市の沖野カ原飛行場で試運転を行ない、八日市町の上空を一周した。小畑は、「伏見の勇山」と呼ばれた任侠で土木請負業をしていた小畑岩次郎の息子で、飛行家になるためフランス留学を予定していたところ欧州大戦が勃発したため、所沢の第二期操縦将校井上武三郎中尉の指導を受け、自宅敷地で純国産材料による飛行機製作も始めていた。本格的な民間飛行場としては日本初となる沖野カ原飛行場も、完成後常次郎が使用できることを条件に、小畑家が工事を請け負っていた。丹精こめた自作発動機が小畑製作の機体に装備され役に立ったことは岸に大きな感激と勇気を与え、1916年2月ころに築地明石町の病院構内に新たに工場を建 てて機体の製作にも着手した。 1916年に帝国飛行協会が実施した飛行機用発動機の懸賞募集に、岸を含め18名22種の応募があったが多くは失格し、岸ら3名4種のみが臨時軍用気球研究会所沢試験所(所沢飛行場)での検定審査に送られた。結果としては島津楢蔵製作の回転式八○馬力一基のみが規定の30分以上続けて予定の動力を出して一等となり、岸式発動機は不調で不合格となったが、かつて映画撮影にまで使われたことなどの実積が評価されて、奨励金が授与された。その一か月後、岸は落選した発動機を整備し同型の二号発動機を作り、自分たちで製作した新機体に取り附け、「剣(つるぎ)号」と命名して同年7月に東京洲崎埋立地で試験飛行を行なった。機体は旧型のモ式で、国産材料を集めて宗里悦太郎が製作に当たった。機名はモリブデンを発見した剣岳に由来するもので、発動機ともに国産品をもって全く一人の手により成った日本民間最初の飛行機となった。剣号は長岡外史が会長を務める国民飛行会に貸し出されて巡回飛行が実施され、岸らは剣号二号機の製作を始め、翌1917年2月には完成披露飛行が行われた。このとき原愛次郎(原保太郎二男で東京帝大工学部卒)がカメラを持って同乗し、これが民間機初の空中撮影と言われる。 岸のもとには技師や工学士、飛行家志願者などが集まり、東京府下に敷地を物色して工場建設と飛行場の計画を進めた。岸が所蔵する書画骨董を売り立てに出して事業資金を作り、1917年10月には帝国ホテルに後藤新平はじめ、逓信大臣田健治郎、農商務大臣仲小路廉、田中舘愛橘博士らを招いて、医業から航空業界への転身を表明する宴を開いたのち、同年12月に北豊島郡岩淵町神谷に赤羽飛行機工場を設立した(従業員60余人)。敷地内には四機収容の格納庫、飛行機体工場、発動機工場、製鋼所、電気炉、本部事務所、宿舎などが建てられたほか、氷川神社から猿田彦命を勧請した赤羽神社が建立され、岸自ら衣冠束帯で奉仕した。1918年夏には東京・上野公園で開催された空中文明博覧会に発動機製作材料などを出品し、同年岸は飛行協会の審査員に選出され、1923年には民間航空事業功労者の一人に選出された。 赤羽工場では第三~第六剣号を製造し、台湾総督府警察航空班にモ式四型三機を収めるなど、機体とルノー式発動機数十台分を陸軍に納め、また岸式マグネトーをスイスにまで輸出するほどの成績をあげて順調に運営されているかに見えたが資金難となり、浅野総一郎の投資を得て飛行機と自動車の製作、製鉄工場の経営を目論むも、1921(大正10)年3月に工場及び赤羽飛行場は突如閉鎖となった。破綻の原因は、岸が興した青森県下北郡の恐山での採鉄事業「下北鉱山」の経営に失敗したことと、モ式の時代が過ぎて陸軍の注文が止まったことなどにあった。
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