賢沼
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 01:48 UTC 版)
境内にある賢沼(かしこぬま、弁天沼とも呼ばれている)は、古くから魚、鳥などの殺生が禁止されている。この沼は底なし沼とされ、また、どんなに雨が降らなくても干上がることがない沼で平谷川瀬の龍門時の井戸、平城の堀、夏井川など市内の寺院や河川と地中深くでつながっているとされている。また、掟を破り、沼内の魚や水鳥(鴨)を取った人間には天罰が下るとされている。 賢沼は長径200m、短径70mの長円形の沼で、水深は4m50cm~5m程度、水量は5万tと見積もられている。昭和30年代までは、沼の水は透明度が高く,沼底を動くウナギの姿や沼底から投げ込まれた餌をめがけて泳ぎ上がるウナギの姿が見えたと伝えられている。しかし、沼周辺の赤松が賢沼寺本堂の建設材に使われ伐採されたこと、同時に松くい虫による松枯れが発生して落葉広葉樹と照葉常緑樹の混合樹林帯に変化した。また、燃料として使用されていた杉の枝や葉がガスや灯油に置き換わり、山の手入れが行われなくなり、荒れ始め「湧水の枯渇」が発生した。沼である以上、閉鎖性が高くなるのは仕方がないのだが、流れ込む水が湧水が絶えてしまったため雨水(周辺部の雨水)だけになったこと、流出が一定水量を超えた時のみという閉鎖性の高さが水質の悪化を招いた。沼周辺の樹林帯に広葉樹が増加したため、落ち葉が増え、土壌を腐葉土化した。沼に流れ込む水にも腐葉土、落ち葉が混じるようになり、沼にも栄養塩の流入、沈降する落ち葉が増加した。一定量の有機物は水中の微生物に分解され、食物連鎖のサイクルが回るようになるのだが、過剰分は未分解のまま堆積してヘドロ化が進行した。一定量の有機物は生物相を増加させた。落ち葉などの有機物はヘドロ化して増加して、水温上昇期には微生物の活動が活発化し沼底部に低酸素水域が発生するようになった。酸欠水域では嫌気性分解が促進されるため、アンモニア、メタン、硫化水素が発生するようになった。酸素により固定されていた成分が嫌気性で溶出するため、成層が破れる秋には、酸欠水域に溶け込んでいた栄養塩類が表層水に拡散し、プランクトンの異常発生(アオコ)が起きるようになった。 これらの変化は本堂の建設のための赤松の伐採(昭和25年、1950年)から徐々に進行したが、水質の悪化を目視で検出するほどではなかった。高度経済成長期には、自動車の普及、観光など社会的な変化は、オオウナギが餌をめがけて集まり泳ぐ姿は、賢沼を観光地化させた。大人の腕ほどもあるニホンウナギが群れをなして餌を奪い合う姿は養殖場でも見ることができない不思議な光景であり、賢沼寺ではウナギの餌を販売し、観光客目当ての土産物店や食堂など沼の周辺の人々の生活にも変化をもたらした。しかし、徐々に進行していた水質変化が目視でも確認されるようになると、ウナギの数が減り始め、観光客も劇的な減少となり、観光地の時代は終わった。賢沼の水質変化は、(昭和60年あたり1985年)から、福島工業高等専門学校(福島高専)といわき市教育委員会、文化庁による調査が行われていたが、水質変化の原因や対策など積極的な取り組みは、現状維持を優先するという間違った法解釈と予算的な裏付けが取られなかったため行われていなかった。2002年から、福島高専といわき市が協力して、水質浄化に取り組み始め、2005年にはいわき市の助成を受けて、水温上昇期(7月から9月まで)に沼底水の排水などが行われた。2009、2010年には財団法人福島県学術教育振興財団の助成を受け、本格的な水質浄化活動が展開された。2009年には日本科学技術振興財団(JST)の支援を受けた環境計測活動も行われるなど、地域のシンボルとしての賢沼を復活させる取り組みが継続され、沼中央部に沈められた水中ポンプによる沼底水の汲み上げ、水の強制循環による酸素供給が試みられた。しかし、2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震により、魚見堂や護岸が崩落、周辺での液状化など被災した。復旧工事は2013年6月から着手され14年3月に完成し、護岸の修復、魚見堂の再建、護岸樹などの植栽が行われた。2017年現在、沼のCODは、15mg/Lから23mg/Lである。一見すると、かなりの富栄養化が進行していると思われがちだが、CODの80%がTOC(難分解性有機物)10%が浮遊物(SS)10%がリン、窒素であり、富栄養化ではなく閉鎖性が高いため懸濁物が異常に多い濁った水の状態となっている。
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