賢治に与えた影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 00:10 UTC 版)
トシが日本女子大学校、賢治が盛岡高等農林学校に進学して離れて生活した時期には、トシは週に一度は手紙を賢治に送っていたという。現存する賢治宛の手紙には自身の将来の相談に加え、賢治の将来についてその「天職」と宮沢家の方針の一致を望む内容が記されている。一方、現存する賢治からのトシ宛書簡にも、トシの学業に対する不満の訴えに答える内容のもの(1915年10月21日付)がある。トシが1915年に学校に提出した「夏期休暇中ノ体験」という課題答案には「敬愛する兄より或暗示を得た」(原文はカタカナ)という文章が見られる。このようにトシは賢治を敬愛し、親密に相談する間柄だった。 賢治の生前唯一の詩集『春と修羅』は、トシの晩年から死後にかけての時期に執筆された(各作品に日付が付され、その日付順に配列されている)。その中で1922年3月20日の日付を持つ「恋と病熱」には「妹」や「つめたい青銅(ブロンヅ)の病室で透明薔薇の火に燃される」「あいつ」が登場する。そして、トシ死去の日付を持つ3つの作品(「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」)でその臨終に至る模様が描かれた。トシが死去した直後、賢治は押し入れに頭を入れて「とし子、とし子」と号泣し、乱れた髪を火箸ですいた。2日後の葬儀に賢治は宗旨の違いを理由に出席しなかった。出棺の際に路上に現れてともに棺を運び、火葬場(焼失していたため、野辺焼きであった)では棺が燃えつきるまで読経して、遺骨の一部を持参した缶に入れた。遺骨は翌年国柱会本部(当時は静岡県三保に所在)に分骨した。『春と修羅』における詩作品は、「無声慟哭」のあとは1923年6月3日の日付を持つ「風林」まで7ヶ月飛んでいる。同年7月から8月にかけて、賢治は農学校生の就職斡旋の目的で樺太に旅行するが、一方でこの旅行でトシの魂との「交信」を求め、その心理を綴った詩を残した(「青森挽歌」「津軽海峡」「宗谷挽歌」「オホーツク挽歌」「噴火湾(ノクターン)」)。天沢退二郎は、『春と修羅』における「とし子」の存在は「恋と病熱」において「暗示・予告されて、以後『永訣の朝』に至るまで、決して詩句の水準に現れてこないこの病熱に燃されている妹の存在を各詩篇各詩句の背後に隠しつつ、隠すことによって示しつづけている」と指摘している。 山根知子は、トシの生前には既存の特定宗教に帰属する信仰が強かった賢治が、トシの死後に執筆したとされる著作(『銀河鉄道の夜』や「農民芸術概論綱要」)や手紙では、「宗教の根底で通じ合う価値観」や「宇宙意志」といった、トシが成瀬仁蔵やモーリス・メーテルリンク(『自省録』に著書からの引用がある)を通じて形成した宗教観・死生観に接近したとしている。また、童話集『注文の多い料理店』の広告チラシにおける「テパーンタール砂漠」というタゴールの詩「新月」からの引用などの賢治のタゴールへの関心に、トシが直接タゴールと接した体験が反映している可能性も指摘している。 賢治の残した「菩薩像」と呼ばれる水彩画(原画は戦災により焼失)は、トシの肖像写真と似た顔立ちを持つと指摘されている。
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