詩集『春と修羅』(第一集)
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「春と修羅」の記事における「詩集『春と修羅』(第一集)」の解説
上記作品を含めた69編の作品と「序」(これを作品と見なすと70編)からなる詩集。1922 - 1923年に制作された作品が収録されている。 1924年(大正13年)4月20日、東京の関根書店から刊行。ただし事実上は賢治の自費出版である(実際の印刷は賢治の住んでいた花巻川口町の印刷所で行われた)。正確なタイトルは『心象スケツチ 春と修羅』で、賢治自身は「詩集」と呼ばれることを好まなかった。タイトルには第一集とはつかないが、その後の第二集・第三集から遡って(区別するために)第一集とも呼ばれる。本の背文字を書いたのは歌人の尾山篤二郎で、これは賢治の親戚である関徳弥の歌の師であるという縁からだった。 上記表題作のほか「原体剣舞連」「小岩井農場」や妹トシ(とし子)の臨終を題材とした「永訣の朝」、そのトシの魂との交流を求める様子を詠んだ「青森挽歌」「オホーツク挽歌」等の作品がよく知られる。 詩集刊行前に賢治が先駆型を雑誌や新聞に発表していた作品が3編存在し、いずれも詩集と一部異同がある。 各作品の下書稿の現存は僅かであるものの、詩集印刷のために活版所で用いられた「詩集印刷用原稿」の大半が現存しており、賢治は刊行への最終段階に至るまで作品の推敲や配置などに意を砕いたことが、原稿に残された書き込みなどから窺える。また、刊行後にも数冊の詩集本文に書き直しの書き込みを行っており、そのうち宮沢家所蔵本をはじめ3冊が現存している。これらの内容の異同は、『【新】校本宮澤賢治全集 第二巻』(筑摩書房刊)で確認することができる。 詩の多くは「心象スケッチ」と賢治自身が名付けた手法によって書かれ、時間の経過に伴う内面の変容、さらにその内面を外から見る別の視点が取り込まれている。この「心象スケッチ」の手法については、ウィリアム・ジェームズが唱えた「意識の流れ」との関連が指摘されている(賢治は『春と修羅 第二集』の詩「林学生」にジェームズの名を書き残しており、著書を読んだ可能性が研究者から言及されている)。 刊行当時、辻潤が読売新聞に連載していたコラムで激賞、佐藤惣之助も詩誌で評価するコメントを付した。背文字を書いた尾山篤二郎も主催する短歌雑誌『自然』の中で賞賛する紹介をしている。しかし当時の世間一般には受け入れられず、大半が売れ残ってしまい、結局賢治が自ら相当の部数を引き取ることになった。引き取った『春と修羅』を岩波書店の学術書と交換するよう依頼する内容の岩波茂雄宛書簡も発見されている。 とはいえ、中原中也や富永太郎といった詩人も強い影響を受けたことが判明している。さらに、中国に留学していた草野心平は『春と修羅』を読んで「瞠目」し、日本に帰国後に創刊した詩誌『銅鑼』に賢治を同人として誘った。草野は賢治の存命中から没後にかけてその作品の紹介に大きな役割を果たすことになるため、この出会いは結果的にきわめて大きな意味を持つ。2021年には、三木露風の遺品のノートから、賢治が刊行直後に露風に献本し、それに対して露風が好意的な返書を送っていたことが明らかになった。 また、地元の岩手県の詩壇においてはこの『春と修羅』によって賢治は一定の評価を受けることとなった。その中で地元詩人との交友も発生し、旧制盛岡中学校の後輩(当時在学中)であった森荘已池と知り合うこととなる。 2019年時点で現存する初版本は30部程度とされている。
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