詩集「春と修羅 第二集」
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「春と修羅」の記事における「詩集「春と修羅 第二集」」の解説
上記の『春と修羅』に続いて、花巻農学校教員時代の後半(1924年 - 1926年3月)に制作された詩群である。賢治は農学校退職後の1928年頃にこれをまとめて出版する構想を立てた。当初は正規の出版ルートを使わずに、謄写版を用いた完全な自費出版とする予定であった。しかし、賢治が所有していた謄写印刷の道具一式を労働農民党にカンパとして供出したため、いったん構想は停滞する。その後、友人である藤原嘉藤治(花巻高等女学校の音楽教諭)や菊池武雄(童話集『注文の多い料理店』の挿絵を担当)らの勧めを受けて、出版社からの刊行を企図し、「序」を執筆している。この序文には上記の2名が出版を勧めた経緯も記されている。また、作品を執筆した農学校教員時代を回想する記述があり、教員としての賢治を論じる際にしばしば引用される「この四ヶ年はわたくしにとってじつに愉快な明るいものでありました」という一節もここに含まれている。 なお、この第二集に相当する時期から賢治は自作の詩に一連の作品番号を付している。この第二集の時期においては、「日付」と照合した場合、番号が不規則に飛ぶ(たとえば100番台の次は300番台となり、500番台まで行って再び300番台があるなど)現象が見られる一方で、度重なる推敲などを経ても日付と作品番号自体はほぼ変わらなかった。 結局、賢治の生前には詩集としての刊行は実現せず、下書きに近い状態の草稿が残された(どの作品のどの段階の形態を収録する予定であったかも明示されていない)。使用した原稿用紙から、改稿・推敲は最晩年までおこなわれていたことが確認されている。このため、複数の逐次形態が存在しており、『校本宮澤賢治全集』(筑摩書房、1973 - 1977年)よりも前の全集や文庫本には(読み取りの困難さ故に)それらが入り交じった本文が採用されている作品もある。また、『校本全集』以降、題が存在しない逐次形態では冒頭行のフレーズを〔〕で括ったものを仮の題としている。 『第二集』について入沢康夫は、『第一集』と『第三集』の間の「過渡的なものと見なされる傾向がある」と指摘し、作品の題材についてはその見解を否定しないまでも、晩年までの長い期間をかけて制作されたことを忘れるべきではないと述べ、「口語詩の中で、もっとも時間と手間をかけた熟度の高い作品が、この『第二集』には集っている」という評価を記している。
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