出版社からの刊行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/22 08:25 UTC 版)
「ピーターラビットのおはなし」の記事における「出版社からの刊行」の解説
1901年、ポター家の友人で時々詩人として活動をしていた聖堂参事会員のハードウィック・ローンズリーはポターの物語を書きかえ、ひどい出来の教訓的な詩に変えて、ポター自身のイラストと修正した原稿を半分程度添え、フレデリック・ウォーン社に提出した。ウォーン社は以前、ポターの原稿を拒否し、ローンズリー版も拒絶したが、ポターの完全な原稿を見たがっていた。ウォーンは、『ピーターラビットのおはなし』が大人気であるヘレン・バナーマンの『ちびくろサンボ』やその時売られていた他の児童書と競合できる機会を与えてくれるのではないかということで、ポターの本に関心を示すようになった。 ウォーンがイラストに色がない理由を尋ねたとき、ポターは、ウサギの茶色や緑色は色つきの絵にするには面白くないと答えた。ウォーンは本を出版しないと言ったが、将来出版できるかもしれないという可能性が開かれた。 ウォーンは「うさぎ本」(ウォーン社はこのように本を呼んでいた)の全体に挿絵を入れることを求めた。そして挿絵を「42枚から32枚」に絞ることを示唆し、さらにどれを削除すればいいか印もつけた。当初、ポターは本の絵に色を入れなかったが、着色しないという頑固な態度は良くないと気付き、「数枚の色つきの絵と、私家版」をウォーンに送った。そしてウォーンは絵本のイラストレーター、レズリー・ブルックにその絵を提出し、意見を求めた。ブルックはポターのイラストに感激し、そしてブルックの推薦は幸運にも小型絵本のブームの時期と一致していた。 一方、ポターは『シャーロック・ホームズ』の作者のアーサー・コナン・ドイル(子どもが本を欲しがっていた)や友人、家族に自分で印刷した本を渡し続けていた。250冊分が配り終えた時には、さらに200冊用意され、ポターは、最愛のペットのピーターが死んだとある1冊に記している。 ポターとウォーンは5000冊を発行することで同意し、1902年6月にはついに公式に契約を結んだ。ポターは、公式に刊行されるまで必要であれば絵を描き足したり、句読点を見直したり、必要なところは絵を書き直したりして、編集プロセスに深く関わった。挿絵用の版木や文章は印刷業者エドマンド・エバンスに送られた。ポターはゲラを受け取って校正し、公式に刊行される1902年10月上旬前には初版8000冊が売り切れた。その年の終わりには28000冊印刷され、1903年の中旬には第5刷まで出来て同じ月には第6刷も出来上がった。最初に商業出版された1年後には56470部が印刷された。
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