製作決定まで
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角川春樹は映画製作参入にあたり、各映画会社を訪問したが、最初に訪ねたのは、東映の岡田茂社長だった。鈴木常承東映洋画部長は「岡田社長から『角川社長が今度映画をやりたいそうだから、いろいろ相談に乗ってあげてくれ』と角川社長を紹介された。角川社長から『ぜひ、映画をやりましょう』と言われた」と証言している。 角川春樹は1975年11月6日に角川書店社長に就任し、映画は本を拡売するための大きな力になると判断、翌1976年1月、映画製作を目的とした角川春樹事務所を設立した。角川春樹が映画に便乗して本を出せば売れると気付いたのは、角川書店を干されていた1968年、26歳のとき、早川書房から出ていたマイク・ニコルズ監督のアメリカ映画『卒業』の翻訳本が珍しく10万部も売れたのを見たからである。 1976年5月24日に東京プリンスホテルで記者会見を行い、映画製作の進出を正式に発表し、『犬神家の一族』と『いつかぎらぎらする日』(笠原和夫脚本、深作欣二監督)、『オイディプスの刃』(村川透監督と発表されていた)の三本をまず製作予定と告知した。『いつかぎらぎらする日』と『オイディプスの刃』はこの時は製作されなかったが、東映は『いつかぎらぎらする日』製作の過程で角川と接触を続けていた。 角川は1976年5月24日に映画製作第一回として『犬神家の一族』を発表し、原作の関係で配給は東宝になったが、この日に二作目として『人間の証明』を構想していることを知らされた東映洋画は、当時角川の制作宣伝面のアドバイザーをやっていた古澤利夫(藤崎貞利)から『人間の証明』はまだ配給会社が決まっていないという情報を得て、興行面の窓口をやっていた土橋寿男(黒井和男)に東映洋画で配給をやらせてくれと頼み、角川春樹にも快諾された。また岡田茂東映社長も『月刊創』1977年5月号のインタビューで、ホストの勝田健から「今度、おたくが配給面で提携することになった『人間の証明』は『犬神家の一族』で角川が大ヒットさせたもんだから、それでは、ということで横あいから乗りだしたんじゃないですか?」と言われ「いや、それはちょっと違うんですョ。わたしは文庫本のブームを角川がつくったときに、これはいけるって狙いをつけてたんです。もっと砕いて言えば、その張本人である角川春樹っていう若い経営者を買ったといえるかもしれないな。彼はどことなくスターらしい風格が滲みでていますしね」などと話し、自分に似て超ワンマンな角川を買っていた。 また『映画ジャーナル』1977年8月号の松岡功・角川春樹との対談で、「戦後の邦画界は、それぞれ固定ファン層をベースに、出来る限り系統館を育成培養しながら、大量生産大量販売システムで稼ぎ上げて来た。映画がテレビに押されて稼ぎが悪くなってからも東映だけは最後までブロックブッキングのメリットを維持して稼ぎ上げて来たんですが、映画興行のあり方、映画配給のあり方が変わりつつあるといえる。去年突如、角川春樹さんが登場して、集中宣伝方式で根こそぎ動員をやらかした。こういう宣伝方式は、ブロック配給を建前とするわれわれからすると、経費増を招くばかりでタブー視されて来たんですが、それと長年何となく職人根性みたいなものがあって、いいモノさえ作れば客は来るんだという観念から抜け切れないんですね。そこへ、角川さんが億単位の宣伝費をバカスカぶち込むことを敢えて試みて、結果爆発的に当たりを示した。となるとモノがいいだけじゃ、最早ダメで、集中宣伝して全国制覇の大話題にしないと大きくは稼げん。そういう時代になったと認めざるを得ない。そういう意味で宣伝のあり方を変えんとダメだ、と実感し『人間の証明』をウチで是非扱って、時代の波の変わりざまを如実に体験したいと思ったわけです」などと述べている。角川春樹は「角川は映画だけが独立して歩み出すことはありません。あくまで出版とのジョイントなくして角川映画は存在しません。この認識の上に立って映画を作るということです。第二作に『人間の証明』を選んだのは、横溝正史さんと違って森村誠一さんは都会で売れてる作家で、地方では売れてないからです。それで映画と第一作ではやれなかったテレビ(ドラマ)を今度はかませて森村さんを売りまくろうという体制です。これが『犬神家の一族』と違う点です」などと話した。 角川は当時、自前のスタジオや劇場を持っていなかったため、スタジオはどこかを借りればよいにしても、映画を大ヒットさせるためには、配給に関しては全国に劇場チェーンを持つ邦画三大メジャー東宝、松竹、東映のどこかと組まなくてはならなかった。しかし松竹は角川を「新参者」などと嫌い、角川も松竹が好きでなかったから、実際は東宝か東映と組むしかなかった。角川としても「特定の映画会社の系列に入っていると思われたくない」という考えがあり、第一作で組んだ東宝の誘いを断り、岡田社長を始め、角川に好意的な幹部のいる東映を選び、また敢えて、撮影所に日活撮影所を選んだ。 角川春樹は『映画ジャーナル』1977年8月号の岡田茂・松岡功との対談で、「興行網については、もう映画界は東宝、東映の二強時代に入ったことは間違いなくいえると思う。劇場の数、質の問題という前に、やはり経営者の決断に満ちた行動力豊かな人を得たという会社の強み、その意味で二強時代に入ったといえると思います。岡田社長にしろ松岡社長にしろ、お話ししてすぐ返事が返ってくる方ですから。二人に巡り合えたのは大変幸せで、二人の決断なくして『犬神家の一族』『人間の証明』も有り得なかったと思います」と話した。 角川が映画に参入したとき「素人に何ができる」という声が強くあった。『犬神家の一族』が大ヒットしたことで、この声は消えたが、角川に悔しさは残った。このため「第二作はそれ以上のブームを興せるものでなければ」と、第二作を何にするかは慎重に考慮された。『人間の証明』が第二作になることが正式に発表されたのは1976年11月18日にジャーナリストを招いて行われた『犬神家の一族』の感謝パーティの席上だった。
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