製作決定
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ダルトン・トランボが『ローマの休日』の原案(ストーリー)を書き、イアン・マクレラン・ハンターと共同で脚本を執筆したのは1940年代半ばごろで、元々フランク・キャプラが映画製作会社リバティ・フィルム社のために書かせたものである。1948年にリバティ・フィルムがパラマウント社に買収された後に、キャプラを監督にして製作に入ることに決まっていた。この時、エリザベス・テイラーとケーリー・グラントに出演交渉されたが、パラマウントの予算が150万ドルと少なかったためキャプラは妥協できず、『ローマの休日』を放棄した。 その後、この企画はしばらく宙に浮いたままだったが、1951年初めにウィリアム・ワイラーがこの脚本を知り、ローマでの撮影を条件に強い関心を示して、ワイラー監督でパラマウント社は製作に入ることとなった。 製作時にアメリカ本国では、ジョセフ・マッカーシー上院議員らによる「赤狩り」と呼ばれるマッカーシズムが吹き荒れ、非米活動調査委員会による共産主義者排斥運動が行われ、映画産業でも「ハリウッド・テン」と呼ばれた人物たちがパージされた。本作の脚本家であるトランボもその一人であったため、友人の脚本家イアン・マクレラン・ハンターが、本作の原案と脚本にその名前をクレジットした。 ウィリアム・ワイラー監督はこの映画の撮影はローマでロケをすると主張し、パラマウントも反対しなかった。制作費を節約するために、パラマウント映画がイタリアで稼いだリラ(国外には持ち出せない)を制作費に充てられる、というのがその理由であった。
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「下落合焼とりムービー」の記事における「製作決定」の解説
『赤塚不二夫のギャグ・ポルノ 気分を出してもう一度』の封切り前に、所の主演映画の話が「面白グループ」でぶり返した。1977年12月に岡田茂東映社長が、東映セントラルフィルムを設立し、配給第一回作品は山田典吾監督の『春男の翔んだ空』だったが、製作第一回作品は、岡田社長の企画『生贄の女たち』を最初は予定していた。同作は『ディープ・スロート』で32センチとも36センチともいわれる巨根を持つポルノ男優として有名になったハリー・リームズを日本に呼んで大和撫子をヒイヒイ言わすというコンセプトの映画であったが、製作が難航し、東映セントラルフィルムの第一回製作作品は、松田優作主演・村川透監督の『最も危険な遊戯』になり『生贄の女たち』は第二弾になった。『ディープ・スロート』の日本版編集は、東映洋画が本作のプロデューサーである向江寛城(向井寛、以下、向井)に頼み、興収3億円の大ヒットに結び付けた功績から、向井は東映から低予算の500万円ポルノを大量に発注しユニバースプロ(後の獅子プロダクション、以下獅子プロ)を設立した。山本晋也は当時、ワタナベプロ経由でにっかつの買い取り作品を撮る人気監督であったが、1978年から向井主宰の獅子プロからの発注が増え、向井と盟友となり、東映セントラルフィルムの発足で、向井が黒澤満とともに中核プロデューサーとして権限が増したことで、『生贄の女たち』の監督が関本郁夫から山本に交代した。獅子プロは、実質東映の下請け会社で、山本は「獅子プロは東映と関係が深くて、だから後に東映セントラルフィルムという会社が出来て、向井寛ちゃんと東映の黒澤満さんがプロデューサーになる。結果それが『下落合焼とりムービー』に繋がるわけだ」と述べている。『生贄の女たち』の脚本は、山本と佐治乾のダブルクレジットであるが、実際は山本が主に書いたとされ、テンポイントを絡ませるオチなどが面白いと評価を高めていた。 1979年6月、東映セントラルフィルムを設立した岡田茂東映社長が、今度は若手プロデューサーや監督に活躍の場を与えようという目的で、ATGの商業映画版である東映シネマサーキット(TCCチェーン、以下TCC)という新たな東映の配給網を作り、その旗揚げ作として向井から山本の元へ「面白グループ企画、所ジョージ主演でコメディ映画を作らないか」という話が舞い込み、「面白グループ」の集大成的な映画、『下落合焼とりムービー』が東映での製作が決まった。山本は「ひとみ寿司で赤塚先生が酔っ払って口癖のように繰り返した『3000万円あればスラップスティック・コメディ映画が作れるのに』が現実になってしまった」と話しているが、高平哲郎は「予算1500万円」と述べている。岡田東映社長は1978年11月に『宇宙からのメッセージ』の全米公開に立ち会うため渡米した際、『アニマル・ハウス』のようなB級作品がニューヨークでジャンジャンお客を入れ込んでいるのを観て、「こりゃうちの『聖獣学園』じゃないか。こうした線を狙ってセントラルフィルムで大いにやるべし。今年はセントラルフィルム、クローズアップの年」などと1978年暮れの『映画ジャーナル』で述べていた。本作の一ヶ月後に公開された『トラック野郎・熱風5000キロ』の併映作は、日本でジャッキー・チェンブームを起こす切っ掛けになった『ドランクモンキー 酔拳』のため、東映もコメディ映画を当てようと試行していた。高平は当時の著書で「プログラムピクチャーの低予算映画が見直されている昨今の風潮に便乗させてもらえた」と述べている。
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