製作まで
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本作は総合プロデューサー・総監修・脚本としてクレジットされている藤浦敦が「実は何から何まで自身がやった」と述べている。1988年頃、にっかつの社長だった根本悌二が企画したとされているが、当時は根本の名前を出さないと企画は通らなかった。副社長の若松正雄を中心とした一般映画路線「ロッポニカ」も不振に終わり、根本が藤浦に助力を求め、「自分の企画を黙って受け入れるか」と承諾させてプロデューサーを務めた『徳川の女帝 大奥』が大ヒットした。これを受けて製作されたのが本作だという。藤浦はにっかつの株を40%所有しており、当時は時価100億円だった。藤浦はにっかつの社長になるつもりでいたが、根本が「社長は若松にしてくれ、アニさんは撮れりゃいいんだろ」と言うので、重役以上の待遇と『落陽』の製作にあたり、根本も若松も口を出さないという条件を飲ませて総合プロデューサー・総監修・脚本として名を連ねることになったと話している。監督をやらなかったのは総合プロデューサーと一緒にできないためで、文句を言わない、全部自分のいうことを聞く人をあたり、昵懇だった立川談志の取り巻きだった伴野朗を監督に据えた。朝日新聞の記者だった伴野は監督としての仕事は当然何も出来ないから、最初のうちは現場に来たが、途中で藤浦が監督料を余計に1000万円払い「余計なことを言ったら殺す」と脅し、途中から来なくなって藤浦が監督もやったという。
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製作まで
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「大奥 (1968年のテレビドラマ)」の記事における「製作まで」の解説
大川博社長(当時)の命で1964年、所長として東京撮影所から京都撮影所(以下、京撮)に帰還した岡田茂の最大のミッションが京撮の合理化であったが、時代劇の退潮とテレビの興隆を肌で感じていた岡田は、時代劇中心の京撮を抜本的に改革しなければ東映の将来はないと考え、それだけの人数を減らすにはテレビ部門を拡充、別会社にしてそこへ押し込むしかないという結論に達した。京撮の実権を握る岡田は、京撮で製作する映画は任侠映画のみとし、「東映京都テレビプロダクション」を設立して、時代劇の製作はテレビに移行させて、『新選組血風録』、『素浪人 月影兵庫』、『銭形平次』といったテレビ時代劇の大ヒット作を製作した。これらの実績により関西テレビから開局十周年企画番組を東映で、というオファーが舞い込んだ。かねてから親交のあった関西テレビ・芝田研三副社長と岡田の話し合いにより、岡田がプロデュースした1967年の映画『大奥㊙物語』のテレビシリーズ化が決定、京撮本体による製作が決定した。キャストは岡田が全部決めた。脚本の内容も岡田がかなりの部分を指示したという。当時関西テレビは、いい作品が一本もなく、いつもフジテレビにやられていた。本作の成功により、一時は途絶えていた京都撮影所でのテレビ制作が本格化し、その後『あゝ忠臣蔵』『長谷川伸シリーズ』『暴れん坊将軍』『影の軍団シリーズ』など、主として異色時代劇の分野を開拓していく。またここで築かれた東映=関西テレビの信頼関係が、後に東映京都撮影所の時代劇復興の礎となっていった。
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製作まで
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「セカンド・ラブ (映画)」の記事における「製作まで」の解説
当時、各映画会社は年頭に一年間のラインアップを決め、"今年脱がせる女優"をリストアップしていた。この年、東映の岡田茂社長(当時)が"脱がせろ"とプロデューサーに命令していたのが大原麗子だった。大原は1971年1月1日付けで東映から渡辺企画(渡辺プロダクション)に移籍しており、当時は東映専属の女優ではなかったが、プロデューサーはクビをかけて交渉に挑んだ。
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製作まで
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「ボヘミアン・ラプソディ (映画)」の記事における「製作まで」の解説
企画の初出は、2010年9月17日に英国放送協会(BBC)のブライアンへのインタビュー内で発された「バンドの歴史に関する今後の映画プロジェクト」である。インタビューによると「サシャ・バロン・コーエンがフレディを演じ、モハメド・アリの伝記映画『ALI アリ』でも製作総指揮を務めたグレアム・キングがプロデューサーの1人を務める予定」とし、脚本は『クィーン』『フロスト×ニクソン』のピーター・モーガンの起用が予定されていた。また、2011年4月にもブライアンによってコーエンがキャスティングされることへの称賛や、「フレディの遺産を台無しにしないよう慎重に進める」などの発言があった。 しかし事態は転じ、2013年7月に「大人向けの映画を構想していたコーエンに対し、ファミリー層にアプローチしたいクイーン側との相違があった」としてコーエンが降板を発表。降板について、クイーン側(ブライアン、ロジャー)は「コーエンがコメディアンとしても著名なことから映画の方向性がぶれてしまう」、コーエン側は「映画の主題(特に1991年のフレディ死去後も描くべきか)についてクイーン側との方向性の違いがあった」、「モーガン、デヴィッド・フィンチャー、トム・フーパーらの製作チームもクイーン側と食い違いがあった」とそれぞれコメントしている。 同年12月にはベン・ウィショーがフレディ役へ浮上。この段階ではフレッチャーが監督候補として挙がっていたものの、翌年にはキングとの方向性の違いからプロジェクトを離脱。ウィショーも脚本などにおいて製作上の問題が発生していることを明かしたのち、降板を発表している。その後も制作陣のラインナップには難航し、コーエンやウィショーの再登板の噂も出たが、いずれも実現していない。 2015年11月、脚本家のアンソニー・マクカーテン(英語版)がプロジェクトに加わり、クイーンの同名の楽曲に因んだ『Bohemian Rhapsody』というワーキングタイトルで動いていることが明かされたほか、2016年には監督にブライアン・シンガーを据えるための交渉に入り、フレディ役にラミ・マレックがキャスティングされ、20世紀フォックスとニュー・リージェンシーが取り仕切ることを発表。同年内にジョニー・フリンがロジャー役、ジェマ・アータートンがフレディの長年のガールフレンドのメアリー・オースティンを演じる予定であることも伝えられたが、この二人については後にキャスティングが変更されている。 2017年5月、マレックがアビー・ロード・スタジオで録音を行い、ロジャーのアパートでロジャー、ブライアンと直接相談したことが報じられた。同月、『エンターテインメント・ウィークリー』はロジャーとブライアンが本作の音楽プロデューサーとして働いていることを報じた。
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