製作までのいきさつ
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「千夜一夜物語 (1969年の映画)」の記事における「製作までのいきさつ」の解説
漫画家手塚治虫は幼少期からアニメーションに強い興味を持ち、1960年には東映動画の長編第三作である『西遊記』に参画、翌年には虫プロダクションを設立し『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』などの黎明期のテレビアニメーションを創出した。また『ある街角の物語』などの大人向けの実験作品を自主製作していた。 1967年秋、当時洋画配給会社であった日本ヘラルドより、手塚に自社製作の作品製作について打診があった。両者により、アニメーション作品にすること、大人ものの、エロチズムを含む大衆娯楽作品とすることとの方針が決定し、企画は手塚側に任された。手塚は、当初ヨハン・ファウストの映像化を企画し、メフィストフェレスを女性とするなどのアイデアも出されたが、同時期に、リチャード・バートン、エリザベス・テイラー主演の『ファウスト悪のたのしみ(英語版)』が公開されることとなり取り下げられた。他『デカメロン』なども候補にあがったものの、性的表現もあり、かつまた当時翻訳が複数の出版社から出されたこともあって、『千夜一夜物語』を取り上げると決まった。 日本ヘラルドと虫プロとの契約は、最終的に虫プロに過酷なもので1億円の配収でも赤字となる計算であった。これは、虫プロ側が制作費を調達できずヘラルドからの借り入れに頼る必要があったためという。それでも手塚は、この企画にゴーを出した。手塚自身も虫プロのスタッフも乗り気になってこの企画に邁進することになる。
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