第1次ピブーン内閣
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「プレーク・ピブーンソンクラーム」の記事における「第1次ピブーン内閣」の解説
1938年12月20日 - 1942年3月6日 1938年12月15日、そのときの首相パホンポンパユハセーナー伯の不信任に伴い議員を集めて投票を行ったが、113名の出席者の内、35票が当時ピブーンソクラームと共に幅を利かせていたソンスラデート伯(タイ語版)に入り、ピブーンソンクラーム自身が得た票は5票であった。にもかかわらず、ピブーンソクラームは陸海軍の支持を受け12月20日ピブーンソンクラームは首相に就任した。ピブーンソンクラームは以前の暗殺未遂の経験から身の危険を感じ、翌年1月21日、王族・官僚・民選議員(民選議員選挙で選ばれた議員のこと。当時、旧人民党派閥は優先的に議席を確保していた。)合わせて51名を逮捕し、うち18名を処刑、その他は国外退去命令や王族籍の剥奪を被った。 その後、ラッタニヨムと呼ばれる一種の愛国主義政策を次々と発表。国名の変更(サヤームからタイへ)や、服装制限、タイ文字の改変など各種の政策を実施した。これは華人をタイ人化させる一種の同化政策、あるいは国民統制の性格を持っていた。これと平行してピブーンソンクラームは華語学校をすべて閉鎖させ、華語新聞も『中原報』のみとし、たばこ産業の独占化(タイ・タバコ専売公社(英語版) (TTM) の成立)、燕の巣(燕窩)の採掘ライセンスの保留、食品商やタクシー・ドライバーの外国人締め出しなど、強攻策を行い華人を閉め出した。その一方で華人への帰化自体は許可していたことからこれは華人の同化を促進した。 対王族政策では、王室財産局を設置し、王室・王族の財産を制限しようとした。この政策は一時的に効力を上げたが、実際には後々、タイ経済の発展に伴い財閥化し、タイ最大の企業グループとなった。 第二次世界大戦勃発後の1940年6月12日に、ピブーンソンクラームはフランス - タイ、日本 - タイで同じ日に相互不可侵条約を締結し、中立政策を吹聴した。しかしドイツがフランスを占領するとピブーンソンクラームはこれをすぐに翻し、同年9月10日、フランスと対仏国境紛争を開始した。三日後インドシナ半島の一部の割譲をフランスに要求することで事態を打開しようとしたがしかしフランスがこれを拒否したため、紛争は翌年までもつれ込んだ。1941年日本がこの仲介に入り、5月9日には東京条約が締結され、フランスがタイに旧タイ領の4県を返還することで同意した。同年7月28日この功績によりピブーンソンクラームは元帥に昇格し、以降は中立政策を吹聴したが、10月に日本とタイが両国の公使館を大使館に格上げしていることなどから、以降は日本寄りになっていったと考えることが出来る。 タイは松岡洋右外相が「泰勢力英米七割、日本三割」 と述べたように親英で、開戦直前1941年11月にもピブーン首相が英国の駐タイ公使に「タイが侵略を受けたら英米が対日宣戦を布告する、と英米が共同で声明するように要請し、あるいは英国の単独声明でもいいと訴えた」。 1941年12月頃、ピブーンソンクラームは太平洋戦争勃発による危機感から、国民総動員体制を導入。同5日と7日には日本の坪上貞二大使が日本軍のタイ通過を求めてピブーンソンクラームを訪れたがバンコクには不在であった。これは意図的なことで、フランスの脅威がなくなった後も、依然日本とイギリスという大国が存在していたため、日本のみに便宜を図ってイギリスの恨みを買うのを恐れたためである。結果、同8日には日本は強引にタイ領通過をもとめて日本軍をタイ領に侵攻させた。日本軍は南タイのソンクラー、パッターニー、およびバンコク南東部のプラチュワップキーリーカンに軍を導入。各地で文民・軍人を問わず抵抗運動が起きタイ側は183人が死亡、日本側は141人が死亡した。ピブーンソンクラームは同11日には日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定を承認した。ピブーンソンクラームは事実この協定に乗り気ではなかった、この協定がタイを事実上、日本の占領下に置くことになりるためである。ピブーンソンクラーム自身も「山の上から岩石が落ちてきたようなもの」との旨をコメントしていた。 しかし、ピブーンソンクラームは協定の締結後態度が一変する。この協定ではタイが日本に協力することを要求していた一方で、機密事項として日本はタイの失地回復に協力するとしていたからである。ピブーンソンクラームは、この時日本との協定はタイにとって利があると判断したため、1942年1月8日にはイギリス軍が首都・バンコクを爆撃したのを機に25日、ピブーンソンクラームは中立政策を完全に翻し英国、米国に宣戦布告。タイは枢軸国となった。
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