第二次世界大戦前 - 戦中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 08:09 UTC 版)
「日本製航空機の一覧」の記事における「第二次世界大戦前 - 戦中」の解説
軍ではグラマン複座戦闘機などを輸入して研究を行っていた。初期にはソ式偵察機/戦闘機/練習機のように輸入した機体をそのまま利用することもあったが、メーカー側がノックダウン生産やライセンス生産で技術を吸収したため、第二次世界大戦前には国内での設計も可能となっていた。 なおプロペラに関しては終戦までハミルトン・スタンダードのライセンス生産品が主力であった。
※この「第二次世界大戦前 - 戦中」の解説は、「日本製航空機の一覧」の解説の一部です。
「第二次世界大戦前 - 戦中」を含む「日本製航空機の一覧」の記事については、「日本製航空機の一覧」の概要を参照ください。
第二次世界大戦前・戦中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 22:08 UTC 版)
昭和に入ると児童文学雑誌は次第に不振となり、最も長く続いた『赤い鳥』『金の星』ともに1929年(昭和4年)には廃刊となった。さらに、次第に軍国色が強まるにつれ、童謡は軟弱であるとして排斥されるまでになった。一方で「隣組」(1940年(昭和15年)作詞:岡本一平、作曲:飯田信夫)や「戦争ごっこ」のような少国民歌に近い歌も作られたりした。現在「汽車ポッポ」(作詞:富原薫、作曲:草川信)として知られる歌も、元は「兵隊さんの汽車」という題名の出征兵士を歌ったものであった。
※この「第二次世界大戦前・戦中」の解説は、「童謡」の解説の一部です。
「第二次世界大戦前・戦中」を含む「童謡」の記事については、「童謡」の概要を参照ください。
第二次世界大戦前・戦中
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 04:49 UTC 版)
卒業後、鉄道員の道を勧める父を説得して、1938年3月9日に東京巨人軍にバッテリーを組んだ吉原とともに投手として入団。阪神、阪急、新球団の南海との争奪戦の末の獲得だったが、各球団の狙いは強打者でもある捕手の吉原であり、投手の川上はそのついでという扱いだったという。契約金は300円・月給110円だった。川上は巨人と契約した1週間後に南海の契約金500円・月給150円という好条件を聞き、巨人と契約したことを悔やんだという。この年の巨人は川上、吉原の他、千葉茂、内海五十雄、野村高義、岩本章、三田政夫がおり、「花の昭和13年組」として注目を集めた。 入団当時は投手として登録されていたが、プロ入り前に左腕を酷使した後遺症で制球と球威に乏しく自他共に認める「軟投派」タイプであった。当時の監督の藤本定義も川上の打撃に注目して打者として育てようと考えていたが、チームは投手が不足していたので投手も兼任させた。熊本工でバッテリーを組んでいた吉原が開幕試合で新人ながらスタメン出場し、同期の千葉が二塁手として活躍しているのを見て「早く打撃に専念すればいいが…」とこぼしていた。春シーズン(当時のプロ野球は春・秋の2シーズン制が採られていた)は川上は投手と打者の両方で起用されたが、いずれも成績は芳しくなかった。 川上が野手に転向したのは春シーズンが終わり、秋シーズンに入る前に行われた夏のオープン戦だった。当時の正一塁手だった永沢富士雄の怪我により、急遽一塁手として出場した試合で3安打の活躍を見せると、藤本定義監督から「ファーストミットを用意せよ」と言い渡され、川上は大喜びした。この年の秋シーズンから一塁手として定着する。翌1939年から内野手として登録されるが、1941年までは投手も兼業していた。 1939年から1シーズン制に戻り、19歳にして史上最年少での首位打者を獲得。同年は116安打・169塁打で松木謙治郎の日本記録を更新(安打数は翌年に鬼頭数雄が更に更新した)、12三塁打も当時の最多記録となった(翌年に鬼頭が更新)。75打点は景浦將を抜く戦前最多(1946年に山本一人が更新)。以後1940年にシーズン41長打・190塁打の戦前最多記録を放ち(1946年に長打数を藤村富美男が、塁打数を大下弘がそれぞれ更新)、1941年にも首位打者に輝いた。「投手で四番」の先発出場を3回記録しており、4月10日の南海戦では投手として出場しながら5安打を放った。10月20日の対イーグルス戦(阪急西宮球場)では当時の日本プロ野球タイ記録となる1試合12与四死球を記録(四球11死球1、5失点で敗戦投手)。 1944年に入営。立川陸軍航空整備学校の教官(陸軍少尉)を務め、部下に丹波哲郎、虫明亜呂無、芥川比呂志がいたが、丹波と虫明は後年、著書で川上からよく殴られていたと記している。内地で終戦を迎えた川上は郷里の人吉に帰り、家族を養うために農業に専念していた。プロ野球は1946年4月からペナントレースが再開され、巨人は川上に対して選手復帰を申し立てた。しかし、川上は人吉の家族を扶養することを考え、「もし3万円貰えるなら巨人に復帰する用意がある」と伝えた。これは、プロ野球で初めて選手が球団に対して契約金を要求したことになるものであり「三万円ホールドアウト事件」とも言われる。条件を呑んでもらえたこともあり、1946年6月から巨人に復帰した。
※この「第二次世界大戦前・戦中」の解説は、「川上哲治」の解説の一部です。
「第二次世界大戦前・戦中」を含む「川上哲治」の記事については、「川上哲治」の概要を参照ください。
- 第二次世界大戦前戦中のページへのリンク