第二次世界大戦前後-1940年代~1950年代半ば
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「ポピュラー音楽」の記事における「第二次世界大戦前後-1940年代~1950年代半ば」の解説
第二次世界大戦時のアメリカは、本土が直接攻撃されることがほとんどなく、生活必需品の生産や供給が滞ることもなかったため、戦争の国民生活への影響は比較的軽微であった。軍事増産はむしろ景気を回復させている。しかし国民の1割に当たる1200万人が兵士となり、多くの軍需工場では女性が工員として働くことになった。西海岸では防空壕設置や灯火規制が行われた。食料品や日用品の配給制は他国同様行われた。バーやダンスクラブの営業制限が行われ、後述のようにジャズの在り方に大きく影響している。軍需産業の発達は南部から北部などへの人口移動を生み、ヒルビリーやブルースやゴスペルなど南部に起源のある音楽の人気を高めた。1945年には大戦が終結し、経済状況も回復したものの、冷戦が固定化し、朝鮮戦争や東西の軍拡競争も行われ、政治的・文化的にはやや保守化した。 音楽の関連でいえば、ニューヨーク・フィルやNBC交響楽団の演奏は変わらず行われており、ブロードウェー・ミュージカルは新作を提供し続けており、ビング・クロスビーやフランク・シナトラは人気を集めており、ジャズ以外には明白な負の影響はあまりなかったようである。1930年代から黄金期を迎えていたハリウッド映画は戦争プロパガンダ映画も制作し、隆盛は続いていた。 しかし、戦争が大衆の音楽への嗜好に影響を与えた可能性は容易に指摘できる。ビング・クロスビーの「ホワイト・クリスマス」(1942年)は現在に至るも世界歴代シングル売上1位を崩していないが、これは憂鬱さと家庭の癒しのイメージの混在が戦時中のリスナーの心をとらえたためであり、米軍放送にはこの歌のリクエストが殺到したという。 愛国心の高揚はヒルビリーの国民的人気を後押しし、テネシー州メンフィスがそのメッカとなった。代表にハンク・ウィリアムズがいる。 厭戦気分の高まりは「長い旅路の果て、我が家に帰る」という歌詞を持つドリス・デイの「センチメンタル・ジャーニー」(1944年)を23週連続チャート1位に押し上げた。
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