第三次・第五次多号作戦
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「竹 (松型駆逐艦)」の記事における「第三次・第五次多号作戦」の解説
最前線にいた「竹」は10月18日夕刻発動の捷一号作戦と20日から始まったレイテ島地上戦に関わる事となり、三度にわたってレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵力輸送作戦(多号作戦)に参加することとなった。作戦直前、田中少佐(竹駆逐艦長)が病気で退艦、マニラ海軍病院へ入院した。11月3日、飯村忠彦少佐(海兵65期)が竹臨時艦長に任命される。飯村少佐は、レイテ島輸送作戦で沈没した軽巡洋艦「鬼怒」の航海長であった。一方、田中少佐(竹駆逐艦長)は呉鎮守府付となる。日本海軍は、宇那木勁少佐(海兵64期)を「竹」駆逐艦長に任命した。宇那木少佐は軽巡「五十鈴」や松型3番艦「梅」を乗り継いで内地からマニラへ移動しており、実際の着任は遅れた。このため「竹」は飯村駆逐艦長の指揮下で多号作戦に従事する。 飯村新艦長を迎えた翌日以降、米軍機動部隊艦上機のマニラ湾空襲により第二遊撃部隊(第五艦隊)旗艦の重巡「那智」が沈没した。11月9日午前3時、「竹」は第三次多号作戦部隊に加わってマニラを出撃する。第三次多号作戦部隊の指揮官は、第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将(海兵44期)であった。駆逐艦4隻(島風、初春、浜波、竹 )、第46号駆潜艇および第30号掃海艇と共に輸送船5隻を護衛してマニラを出港した。 翌10日午前10時、南西方面艦隊司令長官は「初春」と「竹」の所属部隊を入れ替えるよう下令した。同日午後、レイテ島からマニラへ帰投中の第四次多号作戦部隊から駆逐艦3隻(長波、朝霜、若月)を分離、第三次多号作戦部隊の駆逐艦2隻(竹、初春)と入れ替えることになった。 11日午前5時ごろ、「初春」と「竹」は第四次多号作戦部隊と合同した。7隻(霞、潮、秋霜、初春、竹、沖縄、金華丸)は18時30分、「せれべす丸」や輸送艦救援に従事した2隻(占守、第13号)は同日深夜、それぞれマニラに帰投した。なお「竹」と「初春」が当初参加していた第三次輸送船団は、オルモック湾での対空戦闘で壊滅する。駆逐艦「朝霜」を残して全滅した。 11月12日、マニラに到着していた隼鷹輸送隊は、同行していた軽巡洋艦「木曾」を分離する。かわりに駆逐艦「時雨」を編入し、内地へ帰投する。「木曾」と「霜月」は多号作戦部隊第一警戒部隊に編入された。11月13日、マニラ湾は再び空襲をうける。水雷戦隊だけでも5隻(木曾、曙、沖波、秋霜、初春)が沈没もしくは大破着底状態となる。竹乗組員達は「マニラに帰投して大空襲に出くわした。島風と一緒にレイテに行けば良かった。本艦は運が悪い」と自嘲したが、第三次多号船団部隊が「朝霜」を除いて全滅した事を知り、逆に「竹は強運の艦だ」という印象が広まった。 マニラ大空襲をうけて、第五艦隊司令長官志摩清英司令長官は残存艦艇の退避を南西方面艦隊(司令長官大川内伝七中将)に進言した。同13日深夜、第一水雷戦隊司令官が指揮する残存艦艇(霞、初霜、朝霜、潮、竹 )はマニラを脱出した。「竹」はマニラからブルネイに移動する第一水雷戦隊(司令官木村昌福少将・海兵41期、旗艦「霞」)および「潮」と共に南沙諸島長島に向かい、同地で南方に進出途上の第四航空戦隊(日向、伊勢)や護衛艦(霜月、梅、桐)などと会合、燃料を補給してもらう。同地で飯村(臨時「竹」艦長)が退艦し、宇那木少佐は便乗中の戦艦「日向」から「竹」に移乗、新任駆逐艦長となる。 宇那木艦長を迎えた「竹」は、リンガ泊地へむかう第五艦隊とわかれた。コレヒドール島沖合でアメリカ潜水艦ヘイク (USS Hake, SS-256) の雷撃で損傷した第三十一戦隊旗艦の軽巡「五十鈴」と途中ですれ違いつつ、マニラに引き返した 11月20日付で第一水雷戦隊は解隊され、一水戦司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に補職される。同20日付で第三十一戦隊は第五艦隊に編入された。11月21日、マニラの日本陸海軍は、レイテ島への輸送に第三十一戦隊と高速輸送艦を活用することで一致した。 11月24日、「竹」は第一輸送戦隊(司令官曾爾章少将・海兵44期)の指揮下に入り、第五次多号作戦に参加する。第一梯団と第二梯団(竹、第6号輸送艦、第9号輸送艦、第10号輸送艦)としてマニラを出撃した。ところが先発した第一梯団はマスバテ島南東部カタイガンに避泊中で空襲をうけ、全滅した。 翌25日昼、「米機動部隊が接近中」との情報で輸送部隊はタヤバス湾(英語版)に浮かぶマリンドケ島北西部のバラナカン湾に避泊した。間もなく空襲を受けて第6号輸送艦と第10号輸送艦が沈没する。第9号輸送艦も損傷(航海長袴田徳男大尉戦死、砲術長負傷、荷役装置故障)。「竹」も至近弾と機銃掃射で損傷し戦死者15名・負傷者60名余を出した他、ジャイロコンパスが吹き飛ばされて使用不能となった。レイテ島オルモック湾への突入を命じられていたため「竹」幹部は協議をおこなう。先任将校(志賀)は任務遂行を進言、高井義助航海長は「方位磁針を駆使してオルモック湾に向かう覚悟がある」と具申した。機関長は燃料流出を懸念したが「命令なら突入する」と進言、砲術長は反対した。しかし、第9号輸送艦(艦長赤木毅予備少佐)より「砲術長戦死、航海長負傷、大発動艇卸用ワイヤ切断」との報告を受け、再挙を期してマニラに引き返すことにした。沈没艦の生存者を収容し、11月26日マニラに帰投した。こうして第五次多号作戦は失敗した。宇那木艦長は南西方面艦隊司令部(参謀長有馬馨少将、先任参謀高間正義大佐)に出頭して詫びを入れた。「竹」は昼夜兼行で応急修理を行って次期作戦に備えたが、ジャイロコンパスは復旧されずじまいだった。
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