競合会社の出現
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広島電灯の開業は日清戦争(1894 - 1895年)中のことであった。広島は大本営の所在地となり、戦場に兵員・物資を送る兵站基地の機能も置かれて活況を呈した時期にあたる。そうしたことから電灯の需要も大きく、開業5か月後の1895年(明治28年)3月末には需要家数423戸・点火灯数1159灯へと供給成績が伸びた。需要増に対処するため同年2月の株主総会で9万円への増資を決定。この資金で翌1896年(明治29年)10月に芝浦製作所製60キロワット発電機1台を増設した。以後供給成績は伸び続けるが、電灯料金が高価なためこの段階では広く普及するほどではなかった。 日清戦争を機に、広島市にはもう一つの電気事業計画が浮上する。企画者は市内の豪商松本清助で、広島で開かれた第7回帝国議会に出席するため自邸に宿泊した田尻稲次郎大蔵次官・渡辺国武大蔵大臣から水力発電事業を勧められたことが起業の契機という。松本は起業にあたって渡辺の仲介で渋沢栄一の支援を得ることに成功、中央財界の出資を獲得する。そして1897年(明治30年)5月13日、広島水力電気株式会社(後の広島呉電力)として会社設立に至った。同社は呉市の東方、賀茂郡広村に出力750キロワットの広発電所を建設。そこから広島市内と呉市内まで長距離送電線を架設し、1899年(明治32年)5月から呉市内で電灯供給を、半年後の12月15日から広島市内で動力用電力供給をそれぞれ開業した。 広島電灯では、新興の広島水力電気との間で16燭光の終夜灯3000灯分の電力購入契約を1900年(明治33年)2月16日付で締結し、翌1901年(明治34年)6月より受電を開始した。受電開始により一時的に自社火力発電の拡張を伴わない供給増が可能となったほか、広島水力電気が1900年11月に当局の許可を得た広島市内における電灯供給について、広島電灯の承認を必要とするという制限をかけた。
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競合会社の出現
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「愛知電灯」も参照 名古屋市にて名古屋電灯以外の電灯会社を設立しようとする動きは、名古屋電灯開業前からすでに存在した。先に触れた奥田正香や吉田禄在によって計画されていたもので(目論見書によると会社名は「尾張電灯会社」)、1889年6月から7月にかけて新聞報道に現れたものの、立ち消えとなっていた。しかし結局、名古屋電灯は開業後数年で愛知電灯という競合会社の出現を許したのであった。 愛知電灯設立の動機は名古屋電灯の質実に過ぎた経営手法、いわゆる「士族の商法」への反感であったという。名古屋電灯の経営に関するトラブルの一例として、大須にあった遊廓「旭廓」(大正時代に移転し中村遊廓となる)への供給問題が挙げられる。この旭廓は、1892年3月に発生した大須大火に巻き込まれたため、営業主一同は大火の反省から石油ランプの全廃と電灯の使用を取り決め、名古屋電灯に対し特別割引料金によって供給を受けたいと申し込んだ。しかし名古屋電灯は料金割引を拒否したのであった。 名古屋電灯に不満を持つ旭廓の営業主たちを糾合し、旭廓を主たる営業区域として設立されたのが愛知電灯であった。愛知県会議長小塚逸夫を中心に発起されたもので、1894年(明治27年)1月電気事業の許可を取得、3月発足した。資本金は15万円。開業は同年11月20日で、旭廓や発電所との間の沿道地域を供給先とした。この愛知電灯の出現に伴い、名古屋電灯では翌1895年(明治28年)1月より電灯料金を2割近く値下げるという対抗措置を採ったため、名古屋電灯側にもさらなる需要増加をもたらした。とはいえ日清戦争によって燃料石炭費が上昇している時期であったので、経営面では不利に働いた。 こうした名古屋電灯・愛知電灯の競合について経営・技術両面での危険性を指摘する声は多く、1895年11月より日本電気協会が両社の合併に向けて動き始めた。名古屋電灯社内の意見が一致せず合併交渉は長引いたが、翌1896年(明治29年)1月になってまとまり、名古屋電灯による愛知電灯の吸収合併が決定した。両社は3月に合併契約を締結。その合併条件は対等合併で、存続会社の名古屋電灯の資本金16万円に解散する愛知電灯の資本金15万円を加え、さらに両社の株主に割り当て19万円を増資して新資本金を50万円とする、というものであった。合併は4月2日の株主総会にて承認され、合併が成立をみた。 増資によって得た資金は第三発電所(水主町発電所)の建設に充てられた。同発電所は1901年(明治34年)7月に完成。この時期より従来の電灯供給に加え電動機利用のための電力供給も始まった。また発電所拡張のため1904年(明治37年)1月にも倍額増資が決定されている。
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