合名会社時代
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1910年(明治43年)7月、「合名会社多治見電灯所」が加藤喜平から事業を譲り受けた。同社は2年先立つ1908年(明治41年)6月2日付で多治見町に設立されたもので、加藤喜平・乙三郎兄弟が計5万円を出資。初め喜平が、1914年(大正3年)からは弟の乙三郎が代表を務めた。合名会社組織となった直後の第1回事業報告書によると、取付電灯数は3,532灯で、7馬力と少量ではあるが動力用電力の供給もあった。また供給区域には多治見・豊岡両町のほか周辺の池田村(現・多治見市)や下石村・妻木村(現・土岐市)、東方の泉村(同)・瑞浪村・土岐村(現・瑞浪市)が加わっている。ただし妻木村については1912年(明治45年)に妻木電気が設立されたため区域外となった。 土岐川に竣工した第一発電所の出力は当初150キロワット、1911年(明治44年)より225キロワットであったが、多治見電灯所が抱える需要に対しこの発電力は過大であった。にもかかわらず1910年代初頭から、従来の炭素線電球(発光部分=フィラメントに炭素線を用いる白熱電球)に替えて消費電力が3分の1程度で済む金属線電球(発光部分にタングステン線を用いる白熱電球)が普及し始める。さらに1911年に多治見において照明(ガス灯)・動力の分野で競合する都市ガス計画が浮上し、実際に1913年(大正2年)に多治見瓦斯として開業する。こうした競合会社の出現や余剰電力の増加という状況下、多治見電灯所は1913年より製陶業向けに電動ろくろの宣伝を始めた。 1914年(大正3年)、尾張坂の製陶所に電動ろくろが6台設置された。これがこの地方の製陶業界における最初の電動力利用事例である。当時電動ろくろは手動ろくろに比べ6 - 7倍も高価であり、零細事業者の多い業界であるためその導入は重い負担ではあったが、第一次世界大戦による大戦景気が普及を後押しした。電灯の本格的な普及も同時期であり、製陶業の急速な電動力化進行とあわせて需要の急増をもたらしたが、かえって供給力不足を招いて電灯・電力の双方で満足な供給ができなくなったという。多治見電灯所では土岐川支流の小里川(おりがわ)での水力開発を急ぎ、一つの発電所計画であったものを3分割し順次着工、1918年(大正7年)3月に第二発電所(出力135キロワット)を、1922年(大正11年)8月には第三発電所(出力180キロワット)をそれぞれ完成させた。 電力不足は土岐郡内で営業するほかの事業者(妻木電気・駄知町営)でも同様であったため、その解決を目指して1917年(大正6年)に土岐郡会が動いた。郡会では、名古屋市の名古屋電灯が木曽川や矢作川に発電所を建設して土岐郡を通過する送電線を架設する計画を持っていたことから(開発部門は後に分社化され木曽電気製鉄を経て大同電力となる)、同社から受電して郡内の事業者へと配電するという郡営電気事業を起業すると決めた。1920年(大正9年)10月に郡営電気事業が開業し、多治見電灯所では郡から100キロワットを受電するようになった。
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