原合名会社時代
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原合名会社が富岡製糸所を手に入れると、その翌月に当たる1902年10月に原富岡製糸所と改名した。1900年前後には郡是製糸(現グンゼ)を始め、繭質改良に積極的な事業者が現れ、蚕種を安価で配布するものも現れていた。蚕種を養蚕農家に配布することは、繭の品質向上と均質化に寄与するものであった。原合名会社も、まず原名古屋製糸所で1903年(明治36年)から蚕種の配布を始め、1906年(明治39年)からは原富岡製糸所でも開始した。原富岡での蚕種の配布は無償で行なわれ、その数を増やしていく上では、群馬で発祥し、全国的に影響のあった養蚕教育機関高山社の協力も仰いだ。また、工女たちの教育機会の確保は継続されており、娯楽の提供などの福利厚生面にも配慮されていたが、それらについては「普通糸」よりも質の高い「優等糸」を生産していた富岡製糸所にとっては、熟練工をつなぎとめておくことが必要であったからとも指摘されている。 原時代は第一次世界大戦(1914年勃発)や、世界恐慌(1929年)に見舞われた時期を含んでいる。いずれの時期にも生産量は減少しており、ことに1932年(昭和7年)には大幅な減少を経験した。しかし、それから間もなく8緒のTO式繰糸器・御法川式繰糸器を撤去し、20緒のTO式および御法川式を大増設し、生産性は上昇した。1936年(昭和11年)には14万7000キログラムの生産量を記録し、過去最高となった。 このように生産性の向上は見られたが、満州事変や日中戦争によって国際情勢は不安定化していき、1938年(昭和13年)には群馬県最大(全国2位)の山十製糸が倒産した。このような情勢の中、原富岡製糸所の大久保佐一工場長が組合製糸会社(大久保が社長を兼務)のトラブルがもとで自殺したことや、原富太郎の後継者原善一郎が早世するなど、原合資会社内部の混乱が重なっていた。さらに、主要輸出先アメリカで絹の代替となるナイロンが台頭し、先行きにも懸念があった。そのため、原合名会社は山十が倒産したのと同じ1938年に製糸事業の縮小に踏み切った。富岡製糸所は切り離されて、同年6月1日に株式会社富岡製糸所として独立した。形式上の代表取締役は西郷健雄(原富太郎の娘婿)であったが、経営は筆頭株主の片倉製糸紡績会社が担当することになった。
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