空戦での活躍
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1937年8月、日中戦争が勃発すると、チンの第28中隊は南京近くの句容飛行場(英語版)に配置された。8月15日、大村から発進した日本海軍の木更津海軍航空隊所属の九六式陸上攻撃機を南京上空で陳其光とともに各1機撃墜したのがチンの初戦果となった。日本側の戦闘詳報と比較すれば、撃墜したのは第5中隊3番機(安藤仁蔵空曹長機)ということになるが、後年陳其光によればこの戦果は記録されなかったといい、現在の中華民国空軍の公式HPにもこの日第28中隊が参戦したという記述はない。理由として、広東空軍出身者は中央空軍より不当な扱いを受けていた事、また遠方の基地への急派によって戦闘記録担当者が不在だった可能性などがある。なお、この日3機を率い出撃した第4大隊第21中隊長李桂丹が方山付近で陸攻1機を共同撃墜した際、「3機の友軍機」との共同だったことを報告しており、これがチンらと推定される。 翌日、句容上空にて再び飛来した陸攻隊に第3大隊17中隊とともに迎撃を開始し、僚機の鄧政煕少尉(第17中隊所属とも)と太湖上空にて1機共同撃墜(不確実)を報告。こちらは公式記録として残っており、前述の理由からこれを初戦果とする記述もある。日本側の記録によれば、新田隊第3小隊1番機の大杉忠一大尉機と見られるが、48発の被弾と尾崎才治三空曹が重傷を負いつつもアルトゥル飛行場へ帰投している。一方、チンも銃手からの銃撃でエンジンに被弾した。乗機の修理中、クレア・リー・シェンノートの部下のセビー・スミスに老ホークの7.62 mm口径のブローニングM1919重機関銃を新ホークと同じ12.7 mm口径のブローニングM2重機関銃に換装するよう依頼し、結果叶ったが使う機会は訪れなかった。 翌月、第28中隊は南北に兵力を分ける事となり、陳其光ら中隊主力は山西省太原に進出し日本陸軍飛行隊と対峙した。一方チンは4機の老ホークを率いて広東省韶関飛行場に進出、天河飛行場駐留の黄新瑞(英語版)率いる暫編第29中隊と合同で韶関の飛行機製造廠や広州を守る任務についた。9月27日に鹿屋空の陸攻隊が飛来すると、自身の4機と29中隊の3機とともに迎撃に上がり、1機を共同撃墜した。2番機の吉田中尉機と見られるが、同機は被弾しつつ帰投を果たしている。10月6日には9機と交戦。 10月7日、加賀を発した九六式艦上攻撃機が飛来するや迎撃に上がり、護衛の九六式艦上戦闘機4機(新郷英城中尉指揮)と交戦するが、僚機4機を失うという痛撃を受ける。この時、日本側の記録によれば、唯一残ったチンと思しき1機は新郷中尉の左翼翼端に2発を当てたのち追撃されたが、高射砲部隊の掩護射撃で逃げおおせたという。 1938年1月、国民政府がイギリスから購入したグロスター グラディエーターが中国へ到着して組み立てられ、第28中隊などへ配備されることになった。その時グラディエーターのテストパイロットを務めていたジョセフ・「マット」・サマーズ(英語版)大尉は、中国人パイロットを見下している様子だった。そこでチンはグラディエーターでテスト飛行を行って見せたところ、サマーズはその技量に感服し、ホーカー ハリケーンに乗るべきだと言ったという。2月9日、チンは受領したグラディエーターに乗って南昌を発ったが、吹雪に遭遇して丘に激突、右眼に軽傷を負った。療養中の間、副隊長は雷炎均(中国語版)が代行。 5月末に怪我から回復したチンは、すぐに戦闘に参加して神川丸の九五式水上偵察機を撃墜した。 6月1日、第28中隊長に昇進。チンと同期の黄泮揚は第5大隊大隊長となった。6月16日、高雄海軍航空隊の巖谷二三男中尉指揮する96式陸攻6機は、楽昌駅を中心とする粤漢線爆撃のため南雄に飛来、黄泮揚大隊長指揮のグラディエーター9機も韶関機場より迎撃に上がった。チンは2808号を操縦し、黄泮揚の2909号機、鄧從凱の2908号と編隊を組み、1機を被弾せしめた。この空戦で、密集していた米田充平中尉(鹿児島二中、海兵60期)指揮の3機1個小隊を誘爆で一気に撃墜した、これは黄泮揚大隊長の戦果と見られる。帰投後の正午ごろ、別の編隊が飛来して来たと聞いて再び出撃、1機を被弾させた。 7月からは再び南昌に向かい、18日にはソ連空軍志願隊と協力して松本真実少佐、南郷茂章大尉らが率いる第十五航空隊艦戦・艦爆・艦攻隊と交戦した。 1938年から1939年までの間にチンはグラディエーターで多くの戦闘に参加し、さまざまな日本軍機と戦って撃墜記録を増やした。1938年12月1日、チンは少校に進級し、続いて12月27日に第3大隊副大隊長となった。 1939年秋、崑崙関の戦いで地上軍を支援するため、広西省に進出する。7回の空戦を12月27日未明、チンは志願隊のSB爆撃機を護衛するためグラディエーター3機で出撃したが、14空の九六式艦上戦闘機の襲撃を受ける。この戦闘で撃墜され、パラシュートで脱出したが重大な火傷を負った。その後香港の病院で数年にわたって手術と治療をうけ、1941年12月に日本軍の香港占領から逃れるとアメリカへ戻った。アメリカでも引き続き28回もの移植手術を行い、回復後の1945年3月1日、正式に中国空軍を退役。アメリカ陸軍航空軍に所属してヒマラヤ越えの輸送作戦に参加した。
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