空戦での活躍とは? わかりやすく解説

空戦での活躍

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/11 03:20 UTC 版)

アーサー・チン」の記事における「空戦での活躍」の解説

1937年8月日中戦争勃発すると、チンの第28中隊南京近く句容飛行場英語版)に配置された。8月15日大村から発進した日本海軍木更津海軍航空隊所属九六式陸上攻撃機南京上空で陳其光とともに各1機撃墜したのがチン初戦果となった日本側の戦闘詳報比較すれば撃墜したのは第5中隊3番機安藤仁空曹長機)ということになるが、後年陳其光によればこの戦果記録されなかったといい、現在の中華民国空軍の公式HPにもこの日第28中隊参戦したという記述はない。理由として、広東空軍出身者中央空軍より不当な扱い受けていた事、また遠方基地への急派によって戦闘記録担当者が不在だった可能性などがある。なお、この日3機を率い出撃した第4大隊第21中隊長李桂丹方山付近陸攻1機を共同撃墜した際、「3機の友軍機」との共同だったことを報告しており、これがチンらと推定される翌日句容上空にて再び飛来し陸攻隊に第3大隊17中隊とともに迎撃開始し僚機の鄧政煕少尉(第17中隊所属とも)と太湖上空にて1機共同撃墜不確実)を報告。こちらは公式記録として残っており、前述理由からこれ初戦果とする記述もある。日本側の記録によれば新田第3小隊1番機大杉一大尉機と見られるが、48発の被弾尾崎才治三空曹が重傷負いつつもアルトゥル飛行場帰投している。一方チン銃手からの銃撃エンジン被弾した。乗機修理中、クレア・リー・シェンノート部下のセビー・スミスに老ホークの7.62 mm口径ブローニングM1919重機関銃を新ホークと同じ12.7 mm口径ブローニングM2重機関銃換装するよう依頼し結果叶ったが使う機会訪れなかった。 翌月、第28中隊南北兵力分け事となり、陳其光ら中隊主力山西省太原進出し日本陸軍飛行隊対峙した。一方チンは4機の老ホーク率いて広東省韶関飛行場進出天河飛行場駐留の黄新瑞英語版率いる暫編第29中隊合同韶関飛行機製造廠や広州を守る任務についた9月27日鹿屋空陸攻隊が飛来すると、自身の4機と29中隊の3機とともに迎撃上がり、1機を共同撃墜した2番機吉田中尉機と見られるが、同機被弾しつつ帰投果たしている。10月6日には9機と交戦10月7日加賀発した九六式艦上攻撃機飛来する迎撃上がり護衛九六式艦上戦闘機4機(新郷英城中尉指揮)と交戦するが、僚機4機を失うという痛撃を受ける。この時、日本側の記録によれば唯一残ったチン思しき1機は新郷中尉左翼翼端に2発を当てたのち追撃されたが、高射砲部隊掩護射撃逃げおおせたという。 1938年1月国民政府イギリスから購入したグロスター グラディエーター中国到着して組み立てられ、第28中隊などへ配備されることになったその時グラディエーターテストパイロット務めていたジョセフ・「マット」・サマーズ英語版大尉は、中国人パイロット見下している様子だった。そこでチングラディエーターテスト飛行行って見せたところ、サマーズはその技量感服しホーカー ハリケーン乗るべきだと言ったという。2月9日チン受領したグラディエーター乗って南昌発ったが、吹雪遭遇して丘に激突右眼軽傷負った療養中の間、副隊長炎均(中国語版)が代行5月末に怪我から回復したチンは、すぐに戦闘参加して神川丸九五式水上偵察機撃墜した6月1日、第28中隊長昇進チン同期の黄泮揚は第5大隊大隊長となった6月16日高雄海軍航空隊巖谷二三中尉指揮する96式陸攻6機は、楽昌駅を中心とする粤漢線爆撃のため南雄飛来、黄泮揚大隊長指揮グラディエーター9機も韶関機場より迎撃上がったチンは2808号を操縦し、黄泮揚の2909号機、鄧從凱の2908号と編隊組み、1機を被弾せしめた。この空戦で、密集していた米田充平中尉鹿児島二中、海兵60期指揮の3機1個小隊誘爆一気撃墜した、これは黄泮揚大隊長戦果と見られる帰投後の正午ごろ、別の編隊飛来して来たと聞いて再び出撃、1機を被弾させた。 7月からは再び南昌向かい18日にはソ連空軍志願隊協力して松本真少佐南郷茂章大尉らが率い第十五航空隊艦戦艦爆艦攻隊と交戦した1938年から1939年までの間にチングラディエーター多く戦闘参加しさまざまな日本軍機と戦って撃墜記録増やした1938年12月1日チン少校進級し続いて12月27日第3大隊大隊長となった1939年秋崑崙関の戦い地上軍支援するため、広西省進出する。7回の空戦12月27日未明チン志願隊のSB爆撃機護衛するためグラディエーター3機で出撃したが、14空の九六式艦上戦闘機襲撃を受ける。この戦闘撃墜されパラシュート脱出した重大な火傷負ったその後香港病院数年わたって手術治療をうけ、1941年12月日本軍香港占領から逃れるアメリカ戻ったアメリカで引き続き28回もの移植手術行い回復後1945年3月1日正式に中国空軍退役アメリカ陸軍航空軍所属してヒマラヤ越え輸送作戦参加した

※この「空戦での活躍」の解説は、「アーサー・チン」の解説の一部です。
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