百名孤児院とは? わかりやすく解説

百名孤児院

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 06:33 UTC 版)

百名収容所」の記事における「百名孤児院」の解説

「 あそこでの自分人生コンクリート固めて、海に捨てたかった 」 —孤児院での経験に関するインタビューで(浅井春夫沖縄戦孤児院」(2013年)より) 沖縄戦では、日本側の死者行方不明者188,136人で、そのうち沖縄出身者122,228人、その多く民間人であった94,000人)。沖縄戦生きのびた住民米軍設置した民間人収容所収容され、そこで粗悪な収容所運営由来する餓死マラリア収容所なくなった住民少なくなかった。親のいない小さな子どもたち多く米軍はこれらの収容所付随して孤児院10カ所から13カ所設置した女子学徒隊孤児院 激戦地南部生き残り捕虜となった梯梧学徒隊ひめゆり学徒隊女子学徒隊らは、まず百名収容所送られたが、そこでも収容所病院孤児院勤務することとなる。ひめゆり学徒隊南部激戦地240名のうち、136名が亡くなっているが、生存者一人である津波古ヒサは、捕虜となって百名送られ、そこで孤児たち世話をすることになった経緯を以下のように語っている。 「 働くことになって、私はもう働かない早く死ななければいけない、ってそれだけしか考えてなくてあれだったんですけどね。… (アメリカ兵が) 2才か3才ぐらいのまる裸の子どもを、私ら学生がいるところに置いて。もう14、5人ぐらいだったんですかね、… 本当に栄養失調で顔も膨れてるし、それからちょっとの物音でもがたがた震えてるし、もう口も開いて泣いてるはずなのに、もう声も出てない。かわいそうにこの子どもたちは、親が連れて歩いたらけがさせていけないと思って、穴の中に入れてあったのか、親がいなくなって子どもたちだけになってかわいそうにって… 」 —元ひめゆり学徒隊 津波古ヒサ 証言NHK 戦争証言アーカイブスより) 南部米兵保護した多くの親のいない小さな子どもたちは、コザ収容所集められ、またその世話係として、女子学徒隊少女たちも6月末頃にコザ送られた。以下、動員されてナゲーラ壕や識名壕に派遣された元・梯梧学徒隊生存者の証言によると、孤児院小さな子どもたちは、服もなく小さく仕切られマスのなかで寝起きした。それは米海軍8月4日撮影したコザ医務室」の写真一致する。 「 コザ孤児院です。孤児集まってたから、そこにね、ひめゆりの人も一緒なんです百名 (収容所) から。ひめゆりの人も一緒になって、コザ孤児院で。… 着る着物着替えもなくて裸の子どもたち。… もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋4つ区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒マス中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。… 暑いから子どもたち部屋から出てきて、夜露打たれるわけなんですよ。打たれ亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替え着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。そこからアメリカがですね、米軍ミルク中にビタミン入れて、子どもに飲ましたんですけどね。 」 —元 梯梧学徒隊 稲福マサ 証言NHK 戦争証言アーカイブスより) 百名孤児院の記録 このように多く証言は各孤児院の子どもの衰弱死相当数あったことを伝えているが、収容所とその養老院孤児院実際に設立管理していたはずの米軍には、その記録はほとんど見られず、いまも名簿業務日誌などの所在明らかにされていない孤児院の子どもたちの衰弱死に関する統計もなく、浅井春夫は、米軍管理のもとで正確な統計存在しないこと自体が、「囲い込み」であり、施策怠慢ネグレクト)を物語っていると指摘する米軍占領下で、沖縄児童福祉法制定されるのは本土5年も遅れる1953年10月であり、沖縄占領政策優先されるなか、子どもの権利大きく後回しにされてきた。 また浅井は、米軍記録不在の中、米軍政府の下で『沖縄民政府要覧』に記載された各孤児院の「収容人数」の数と、1945年11月21日から1946年4月3日に「うるま新報」に掲載され孤児院の「身寄を求むの名前の数の違いにも言及している。コザ孤児院新聞掲載された名前は412名だが、『要覧』には81名と記載されている。 百名孤児院は1946年要覧』では24人とされている。うるま新報への掲載記録書かれてはないが、しかし、1946年から1949年まで軍政府があった知念補給地区将校ホームメイド務め軍政府要人親しく接す機会多かった上原栄子は、彼女の自伝住宅建設予定地から見える百名孤児院の様子記している。 「 孤児院を見下ろすその丘の上からは、戦場拾われ二、三百人ほどもいる戦災孤児たちの生活が手にとるように見えます。… コンセットと呼ばれる大きなカマボコ型のトタン屋根兵舎や、三角屋根並んだ即製孤児院で、何も知らない裸足の子供たちが、アメリカ から送られお仕着せ洋服帽子だけは一人前着けています。ふくれたお腹におへそを突き出しきらきらと光る目に、鼻を垂らして、… 」 —上原栄子『辻の戦後篇(上巻)』 収容人数多く、コンセットの兵舎収容できないため、いまだ三角屋根米軍即製テント使っている孤児院当時の様子うかがわれる

※この「百名孤児院」の解説は、「百名収容所」の解説の一部です。
「百名孤児院」を含む「百名収容所」の記事については、「百名収容所」の概要を参照ください。

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