百名孤児院
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「 あそこでの自分の人生をコンクリートに固めて、海に捨てたかった 」 —孤児院での経験に関するインタビューで(浅井春夫「沖縄戦と孤児院」(2013年)より) 沖縄戦では、日本側の死者・行方不明者は188,136人で、そのうちの沖縄出身者が122,228人、その多くが民間人であった(94,000人)。沖縄戦を生きのびた住民は米軍が設置した民間人収容所に収容され、そこで粗悪な収容所運営に由来する餓死やマラリアで収容所でなくなった住民も少なくなかった。親のいない小さな子どもたちも多く、米軍はこれらの収容所に付随して孤児院を10カ所から13カ所設置した。 女子学徒隊と孤児院 激戦地南部で生き残り捕虜となった梯梧学徒隊やひめゆり学徒隊の女子学徒隊らは、まず百名収容所に送られたが、そこでも収容所の病院や孤児院で勤務することとなる。ひめゆり学徒隊は南部の激戦地で240名のうち、136名が亡くなっているが、生存者の一人である津波古ヒサは、捕虜となって百名に送られ、そこで孤児たちの世話をすることになった経緯を以下のように語っている。 「 働くことになって、私はもう働かない、早く死ななければいけない、ってそれだけしか考えてなくてあれだったんですけどね。… (アメリカ兵が) 2才か3才ぐらいのまる裸の子どもを、私ら学生がいるところに置いて。もう14、5人ぐらいだったんですかね、… 本当に栄養失調で顔も膨れてるし、それからちょっとの物音でもがたがた震えてるし、もう口も開いて泣いてるはずなのに、もう声も出てない。かわいそうに、この子どもたちは、親が連れて歩いたらけがさせていけないと思って、穴の中に入れてあったのか、親がいなくなって子どもたちだけになって、かわいそうにって… 」 —元ひめゆり学徒隊 津波古ヒサ 証言(NHK 戦争証言アーカイブスより) 南部で米兵が保護した多くの親のいない小さな子どもたちは、コザ収容所に集められ、またその世話係として、女子学徒隊の少女たちも6月末頃にコザに送られた。以下、動員されてナゲーラ壕や識名壕に派遣された元・梯梧学徒隊の生存者の証言によると、孤児院の小さな子どもたちは、服もなく小さく仕切られたマスのなかで寝起きした。それは米海軍が8月4日に撮影した「コザの医務室」の写真と一致する。 「 コザの孤児院です。孤児が集まってたから、そこにね、ひめゆりの人も一緒なんです。百名 (収容所) から。ひめゆりの人も一緒になって、コザの孤児院で。… 着る着物、着替えもなくて裸の子どもたち。… もう着替えもないんですよ。8畳ぐらいの部屋を4つに区切ってですね、マス状態に、そこに何名か寝かすわけじゃないですか。裸。この子どもたちが1人、うんこしたりしっこしたりしますでしょ。これ、一緒のマスの中にいる5、6人の子どもたちみんな汚れてしまうんです。朝は、この子どもたちに浴びせるのが最初の仕事です。… 暑いから子どもたちが部屋から出てきて、夜露に打たれるわけなんですよ。打たれて亡くなってるのが、毎日5、6名は亡くなっていましたね。着替える着物もない、おなかこんなですよ。もう栄養失調で。そこからアメリカがですね、米軍がミルクの中にビタミン入れて、子どもに飲ましたんですけどね。 」 —元 梯梧学徒隊 稲福マサ 証言(NHK 戦争証言アーカイブスより) 百名孤児院の記録 このように、多くの証言は各孤児院での子どもの衰弱死が相当数あったことを伝えているが、収容所とその養老院や孤児院を実際に設立管理していたはずの米軍には、その記録はほとんど見られず、いまも名簿や業務日誌などの所在は明らかにされていない。孤児院での子どもたちの衰弱死に関する統計もなく、浅井春夫は、米軍管理のもとで正確な統計が存在しないこと自体が、「囲い込み」であり、施策の怠慢(ネグレクト)を物語っていると指摘する。米軍の占領下で、沖縄で児童福祉法が制定されるのは本土に5年も遅れる1953年10月であり、沖縄の占領政策が優先されるなか、子どもの権利は大きく後回しにされてきた。 また浅井は、米軍記録の不在の中、米軍政府の下で『沖縄民政府要覧』に記載された各孤児院の「収容人数」の数と、1945年11月21日から1946年4月3日に「うるま新報」に掲載された孤児院の「身寄を求む」欄の名前の数の違いにも言及している。コザ孤児院で新聞に掲載された名前は412名だが、『要覧』には81名と記載されている。 百名孤児院は1946年『要覧』では24人とされている。うるま新報への掲載記録は書かれてはないが、しかし、1946年から1949年まで軍政府があった知念補給地区で将校のホームメイドを務め、軍政府要人と親しく接する機会の多かった上原栄子は、彼女の自伝に住宅建設予定地から見える百名孤児院の様子を記している。 「 孤児院を見下ろすその丘の上からは、戦場で拾われた二、三百人ほどもいる戦災孤児たちの生活が手にとるように見えます。… コンセットと呼ばれる大きなカマボコ型のトタン屋根の兵舎や、三角屋根が並んだ即製孤児院で、何も知らない裸足の子供たちが、アメリカ から送られたお仕着せの洋服や帽子だけは一人前に着けています。… ふくれたお腹におへそを突き出し、きらきらと光る目に、鼻を垂らして、… 」 —上原栄子『辻の華・戦後篇(上巻)』 収容人数が多く、コンセットの兵舎に収容できないため、いまだ三角屋根の米軍即製テントを使っている孤児院の当時の様子がうかがわれる。
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