登場前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/28 07:00 UTC 版)
「大阪市交通局1001形電車」の記事における「登場前史」の解説
明治・大正期の大阪市は、江戸期以来の日本経済の中心地であると同時に、明治以降には海岸部を中心に造船や機械などの重工業がいち早く立地したことから、「東洋のマンチェスター」と呼ばれる日本最大の工業都市となった。このように、大阪市では急速に近代都市への脱皮が進んだために、都市インフラの整備が求められるようになったことから、その財源のひとつとして電車事業に乗り出した。同時期の東京をはじめとした他都市では、民間企業が電車事業を行っていたが、大阪市では、「市電のような公共性の高い交通機関は営利中心の民間企業に任せるべきではなく、都市経営の一環として直営で運営すべきである」といった考えのもと、市直営で路面電車事業を開業した。つまり、最初に都市計画のマスタープランを定めて、それに沿いながら道路を拡幅して市電を敷設・開業し、その収益でまた道路を拡幅して市電を開業する、といったサイクルを繰り返すことで、1903年の市電第一期線の開業から10年あまりの間で主要幹線道路の拡幅と市電の建設を実施し、市電ネットワークの基礎を形作った。この手法は、後に「市営モンロー主義」として非難・嘲笑されるが、後年、東京をはじめとした各大都市の市内電車が市営化されたことでも分かるように、当時の脆弱な民間資本では都市の発展に応じて市電の路線延長を行うことや都市計画に沿った形で市電ネットワークを形成することは困難であった。しかし、大阪市では、市電の建設を都市計画の一環として行政主導で行ったことが、結果的に電車以外の都市インフラも含めた総合的な都市基盤整備につながったのである。 実際、市内中心部の南北線(四ツ橋筋)、東西線(長堀通)の開業以降、市電の乗客は増加し、これら第二期線に続いて堺筋線、曽根崎天満橋筋線、九条高津線、上本町線などの第三期線が開業する明治末年以降には、市電はすっかり市民の足として定着して、増える一方の利用客をさばくために、明治末期から大正の初めにかけてボギー車の501形、601形が登場した。その後も都市化が進む周辺地域に向けて第四期線の建設が進められようとしており、1001形は、このような時期に大阪市電初の大型3扉ボギー車として登場した。
※この「登場前史」の解説は、「大阪市交通局1001形電車」の解説の一部です。
「登場前史」を含む「大阪市交通局1001形電車」の記事については、「大阪市交通局1001形電車」の概要を参照ください。
登場前史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/31 09:30 UTC 版)
「大阪市交通局801形電車」の記事における「登場前史」の解説
大正末期から昭和初期にかけては日本におけるモータリゼーションの揺籃期であった。当時の社会・経済状況から個人所有のマイカー普及とまではいかなかったが、トラックやバス・タクシーといった商業用の車両は比較的速く普及し、人力や畜力の輸送手段を置き換えつつあったほか、路面電車や地方小鉄道にとって手強い競争相手に成長しつつあった。大阪市においても、市電と1924年から営業を開始した民営の大阪乗合バス(青バス)との競争が激化し、更に、1929年からは1927年の創業以来、市電の路線エリア外で走っていた市バスも市内路線に入ってきて三つ巴の競争が繰り広げられるようになった。そこに追い討ちをかけたのが昭和初期の大恐慌で、不況とモータリゼーションのダブルパンチによって乗客数が減少したことから市電の収益は低下、1931年には開業以来初の赤字決算となり、翌1932年には赤字幅が増大してしまった。 ここにおいて、大阪市電気局も市電の経営合理化を図るようになった。これまで増備してきた1601形などの車掌2人乗務の3扉大型車では、乗客数が減少している状況では人件費がかかって収支が合わないことと、幹線以外の系統では、ラッシュ時以外は大型車を必要とするような乗客数ではないことから、2扉の中型車を投入することとした。また、1920年から1921年にかけて登場した1001形(初代)は、車体重量が過大だったこともあって車体の垂下や緩みに悩まされていたことから、同形を鋼体化改造して修繕費を節減することも併せて検討された。そこで、事故で車体を焼失した1044号の台車・電装品を活用して、1932年7月に福町車両工場において中型ボギー車の801号が登場した。
※この「登場前史」の解説は、「大阪市交通局801形電車」の解説の一部です。
「登場前史」を含む「大阪市交通局801形電車」の記事については、「大阪市交通局801形電車」の概要を参照ください。
- 登場前史のページへのリンク