特攻第一号とは? わかりやすく解説

特攻第一号

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 21:01 UTC 版)

関行男」の記事における「特攻第一号」の解説

1944年10月28日神風特攻隊戦果が「海軍省発表」で公表された。敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した朝日隊、山桜隊菊水隊戦果同時に発表されなかった。国民神風特攻隊知ったのは1944年10月29日新聞による特攻第一号・関中佐の発表最初だった。そのため、敷島隊長関行男中佐は「特攻第1号」として大々的発表されたが、関に先んじて21日消息を絶った大和隊長久納については、中島より敵艦への突入確実という報告はされたが、戦果確認出来ず新聞等で報じられることはなかった。この久納の未帰還をもって特攻第1号」は関ではなく、久納を第一号と主張する者もいる。一航艦航空参謀吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃天候悪く到達できず、山か海に落ちた想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という。軍令部部員奥宮正武によれば、久納未帰還発表遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀淵田美津雄大佐慎重な処置ではないかという。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視海兵学校重視処置ではないかとする意見対し当時目標空母で、帰還機もあり、空母見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日目標拡大したことで長官加えた」と話している。 久納が未帰還となった10月21日連合軍側の記録にある艦艇損害の、オーストラリア海軍重巡洋艦オーストラリア」の損傷が久納の特攻による戦果という主張もある。特攻機は「オーストラリア」の艦橋付近に命中し、エミール・デシャニュー(英語版艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死するなど大きな損害受けたが、「オーストラリア」が特攻受けたのは早朝6:05とされており、久納の出撃時間16時25分より10時間も前で時間遡るうえ、「オーストラリア」に突入したのは、陸軍航空隊第4航空軍隷下の第6飛行団の、特攻隊ではない通常攻撃隊の「九九式襲撃機」が被弾後体当たりをして挙げた戦果とされている。なお陸軍初の特攻隊となる「万朶隊」と「富嶽隊」はこの時点では未だ内地にいて、フィリピン進出準備中であった。また23日に同じ大和隊の佐藤馨上飛曹が未帰還となったが、久納と同じ状況であり「特攻第一号」とは認定されなかった 10月25日には敷島隊に先立つ事約1時間前、ダバオから朝日隊、山桜隊菊水隊出撃し、7時40分に第77.4.1任務群(タフィ1、トーマス・L・スプレイグ少将)に突入して護衛空母スワニー」に滝沢光雄一飛曹機が、「サンティー」に加藤豊文一飛曹機が命中している。「第2号」から「第8号のち第7号」の内訳のうち6名のち5名はこの攻撃よるもので、残る1名は10月23日大和隊で出撃して消息を絶った佐藤である(1人減っているのは、朝日隊の礒川質男一飛曹が当初特攻戦死」と発表されたものの、生存確認され取り消されたからである)。この戦果はのちの関率い敷島隊より先に挙げた戦果であったが、戦果報告は、菊水隊護衛戦闘機帰還した午前9時45分になされ、その戦果報告具体性に欠くもので、確認やりとり時間要して連合艦隊への報告遅延し結果的に3時間もあとの敷島隊の戦果神風特別攻撃隊初戦果扱いとなってしまった。 この神風特攻隊発表筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内軍令部総長及川よるものであり、特攻インパクトのために数より、海兵出身者による特攻という質を重視した判断という指摘もある。また、菊水隊直掩から中島伝達され戦果情報は、9時48分にダバオ第六十一航空戦隊に伝えられたが、朝日隊、山桜隊戦果については定かでは無かったため同日夕方まで待った後、196分に一航艦へ報告行ったこと、第六十一航空戦隊は後方支援部隊のため、作戦部隊の状況判断欠けていたのに対して敷島直掩西沢から中島伝達され12時5分に一航艦へ打電され戦果情報は「疑問余地なく上層幹部予想していなかった大戦果」だったこと、敷島隊のみ、隊員全員戦闘状況明確だったこと。関が最初に指名され特攻隊全ての総指揮官で、かつ先頭立って突入したこと、これらが敷島隊のみ公表され要因とする指摘もある。 母・サカエが関の戦死知ったのは関の突入3日後の10月28日で、軍の戦死公報ではなくラジオ臨時ニュースであった。それから間もなくサカエ自宅鎌倉実家帰っていた妻・満里子のもとに新聞記者殺到した地元西条市では軍神関中佐の母が健在だとわかると、どの地よりも大きな騒ぎとなり、同じく西条市出身特攻戦死した大黒雄二飛曹両名遺烈顕彰するとした顕彰会が結成され11月25日県下全学校、工場事業所顕彰会や記念講演開催、そして10月25日記念日として制定し毎年顕彰行事開催することを決定している。関家前には「軍神関行男海軍大尉之家」という案内立てられ多数あらゆる階層弔問客が「軍神の母」を訪ねたサカエ気丈にも狭い借家で、弔問客誰彼となく愛想よく迎えた

※この「特攻第一号」の解説は、「関行男」の解説の一部です。
「特攻第一号」を含む「関行男」の記事については、「関行男」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「特攻第一号」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「特攻第一号」の関連用語

特攻第一号のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



特攻第一号のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの関行男 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS