特攻第一号
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1944年10月28日神風特攻隊の戦果が「海軍省発表」で公表された。敷島隊の戦果だけであり、同じく特攻した朝日隊、山桜隊、菊水隊の戦果が同時に発表されなかった。国民が神風特攻隊を知ったのは1944年10月29日の新聞による特攻第一号・関中佐の発表が最初だった。そのため、敷島隊隊長・関行男中佐は「特攻第1号」として大々的に発表されたが、関に先んじて21日に消息を絶った大和隊隊長久納については、中島より敵艦への突入確実という報告はされたが、戦果を確認出来ず新聞等で報じられることはなかった。この久納の未帰還をもって「特攻第1号」は関ではなく、久納を第一号と主張する者もいる。一航艦航空参謀・吉岡忠一中佐によれば「久納の出撃は天候が悪く到達できず、山か海に落ちたと想像するしかなかった」「編成の際に指揮官として関を指名した時から関が1号で、順番がどうであれそれに変わりはないと見るべき」という。軍令部部員・奥宮正武によれば、久納未帰還の発表が遅れたのは、生きていた場合のことを考えた連合艦隊航空参謀・淵田美津雄大佐の慎重な処置ではないかという。また、久納が予備学生であったことから予備学生軽視、海兵学校重視の処置とではないかとする意見に対し「当時は目標が空母で、帰還機もあり、空母も見ていない、米側も被害がないので1号とは言えなかった。10月27日に目標が拡大したことで長官が加えた」と話している。 久納が未帰還となった10月21日の連合軍側の記録にある艦艇の損害の、オーストラリア海軍重巡洋艦「オーストラリア」の損傷が久納の特攻による戦果という主張もある。特攻機は「オーストラリア」の艦橋付近に命中し、エミール・デシャニュー(英語版)艦長とジョン・レイメント副官を含む30名が戦死するなど大きな損害を受けたが、「オーストラリア」が特攻を受けたのは早朝6:05とされており、久納の出撃時間16時25分より10時間も前で時間が遡るうえ、「オーストラリア」に突入したのは、陸軍航空隊第4航空軍隷下の第6飛行団の、特攻隊ではない通常攻撃隊の「九九式襲撃機」が被弾後に体当たりをして挙げた戦果とされている。なお陸軍初の特攻隊となる「万朶隊」と「富嶽隊」はこの時点では未だ内地にいて、フィリピンへ進出準備中であった。また23日に同じ大和隊の佐藤馨上飛曹が未帰還となったが、久納と同じ状況であり「特攻第一号」とは認定されなかった 10月25日には敷島隊に先立つ事約1時間前、ダバオから朝日隊、山桜隊、菊水隊が出撃し、7時40分に第77.4.1任務群(タフィ1、トーマス・L・スプレイグ少将)に突入して護衛空母「スワニー」に滝沢光雄一飛曹機が、「サンティー」に加藤豊文一飛曹機が命中している。「第2号」から「第8号のち第7号」の内訳のうち6名のち5名はこの攻撃によるもので、残る1名は10月23日に大和隊で出撃して消息を絶った佐藤である(1人減っているのは、朝日隊の礒川質男一飛曹が当初「特攻で戦死」と発表されたものの、生存が確認されて取り消されたからである)。この戦果はのちの関率いる敷島隊より先に挙げた戦果であったが、戦果報告は、菊水隊の護衛戦闘機が帰還した午前9時45分になされ、その戦果報告が具体性に欠くもので、確認のやりとりに時間を要して連合艦隊への報告が遅延し、結果的に3時間もあとの敷島隊の戦果が神風特別攻撃隊の初戦果扱いとなってしまった。 この神風特攻隊発表の筋書きは、講和推進派の海軍大臣米内と軍令部総長及川によるものであり、特攻のインパクトのために数より、海兵出身者による特攻という質を重視した判断という指摘もある。また、菊水隊直掩から中島に伝達された戦果情報は、9時48分にダバオの第六十一航空戦隊に伝えられたが、朝日隊、山桜隊の戦果については定かでは無かったため同日夕方まで待った後、19時6分に一航艦へ報告を行ったこと、第六十一航空戦隊は後方支援部隊のため、作戦部隊の状況判断に欠けていたのに対して、敷島隊直掩の西沢から中島に伝達され、12時5分に一航艦へ打電された戦果情報は「疑問の余地なく上層幹部も予想していなかった大戦果」だったこと、敷島隊のみ、隊員全員の戦闘状況が明確だったこと。関が最初に指名された特攻隊全ての総指揮官で、かつ先頭に立って突入したこと、これらが敷島隊のみ公表された要因とする指摘もある。 母・サカエが関の戦死を知ったのは関の突入3日後の10月28日で、軍の戦死公報ではなくラジオの臨時ニュースであった。それから間もなく、サカエの自宅と鎌倉の実家に帰っていた妻・満里子のもとに新聞記者が殺到した。地元の西条市では軍神関中佐の母が健在だとわかると、どの地よりも大きな騒ぎとなり、同じく西条市の出身で特攻で戦死した大黒繁雄二飛曹両名の遺烈を顕彰するとした顕彰会が結成され、11月25日に県下全学校、工場、事業所で顕彰会や記念講演を開催、そして10月25日を記念日として制定し毎年顕彰行事を開催することを決定している。関家の前には「軍神関行男海軍大尉之家」という案内柱が立てられ、多数のあらゆる階層の弔問客が「軍神の母」を訪ねた。サカエは気丈にも狭い借家で、弔問客を誰彼となく愛想よく迎えた。
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