火災と衝突 (1997)
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「シャトル・ミール計画」の記事における「火災と衝突 (1997)」の解説
1997年1月12日にSTS-81でアトランティスが打ち上げられ、5回目のドッキングを行った。これはこの年最初のミッションとなり、ジョン・ブラハと交代でジェリー・リネンガーがミールに滞在することになった。アトランティスのクルーは物資をミールに運び入れ、シャノン・ルシッドが植え、宇宙で収穫された小麦を地球に戻した。ドッキングしていた5日間、クルーはミールに2,700kgの補給物資を運び込み、1,100kgの物資をアトランティスに戻した。 STS-81のクルーは国際宇宙ステーションのズヴェズダに使うために設計されたシャトルトレッドミル振動絶縁と安定システムを試験した。ISSの再上昇のための工学データを集めるために、シャトルとミールの接続中にシャトルのバーニアジェットスラスタの使用が実験された。ドッキングの後、アトランティスはミール周辺での飛行を行い、地球へ帰還した。 リネンガーは、外国のステーションであるミールからワシリー・ツィブリエフとともに宇宙遊泳を試み、ロシアの製造したオーラン宇宙服使用した最初のアメリカ人となった。EO-23長期滞在のクルーであった3人全員がソユーズ宇宙船の周辺を飛行し、最初はステーションに取り付けられていたドックから手動で飛行で宇宙に出て、さらに再度違う場所から宇宙に出ている。これによってリネンガーは2機の宇宙ステーションの異なる機体から宇宙へ出た初めてのアメリカ人となった。 一方、この期間中クルーであったリネンガーとツィブリエフ、ラズトキンの3人はいくつかの問題に直面することになった。最も大きなものはバックアップ酸素発生器で発生した火災であり、これによって船内システムに様々な障害が発生した。そのほか長距離手動ドッキングシステムTORUテスト中のプログレス補給船とのニアミス、ステーション電力の全喪失などが発生した。電力喪失は姿勢制御能力の喪失の原因となり宇宙で制御下に無い回転を引き起こした。 5月15日にSTS-84でアトランティスが打ち上げられ、6回目のドッキングを行った。このドッキングではリネンガーと交代でアメリカ人宇宙飛行士のマイケル・フォールとロシア人のミッションスペシャリストのエレーナ・コンダコワがミールに乗り込んだ。また、クルーは249品の物品をミールとシャトルの間で移動させ、水、実験試料、物資、ハードウェアなどが運び込まれた。ミールに移動された最初の物品は火災で失ったエレクトロン酸素発生器であった。また、3月21日のドッキング解除のための後退中に将来予定されるESAの欧州補給機とISSのランデブー用に設計されたヨーロッパ製のセンサー装置からのデータ収集を目的として3度停止した。 フォールのインクリメント期間は6月25日までは順調に進んだが、2度目のプログレスの手動ドッキングシステムTORUの試験の際に補給船がスペクトルモジュールのソーラーアレイに衝突した。モジュールの船体外部は打撃で破損し、ステーション全体の与圧が失われる傷ができた。これは有人宇宙飛行の歴史上最初の軌道上での気圧降下であり、クルーはステーションを見捨てないで済むように、即座にスペクトルとつながるケーブルを切断しハッチを閉めた。これによってスペクトルモジュールを除いてステーション内の与圧は安定したが、一方でスペクトル内に保管されていたフォールの実験具や個人的成果は真空の中で閉じ込められた。幸運なことに、食料、飲料水その他の生命維持用物資は他のモジュールに蓄えられており、フォールによる回収・再計画の努力と両国の科学の共有によって研究データと研究能力の喪失は最小化された。 スペクトル切り離しによって電力とシステムが喪失されたが、これを再生させるために空気の抜けている穴を探す試みとして、ミッションの後半でアナトリー・ソロフィエフとパーヴェル・ヴィノグラードフが引き揚げ作業を行った。彼らはITAと呼ばれる宇宙遊泳で、空のモジュールに入り、ハードウェアの状態とスペクトルからステーションの船室へ続いていたケーブルを点検した。これに続いて、フォールとソロフィエフは6時間のEVAと呼ばれる宇宙飛行を行い、スペクトル外部表面の破損を詳しく調査した。この事故の後、アメリカ議会とNASAはの宇宙飛行士の安全性からこの計画を放棄すべきかどうかを考えたが、NASAの局長であるダニエル・ゴールディンは継続を決定した。 9月25日にはSTS-86でアトランティスが打ち上げられ、7回目ドッキングを行った。これは1997年最後のシャトル・ミールミッションとなり、フォールと交代でデヴィッド・ウルフがミールへ運ばれた。アトランティスのヴラジミア・ティトフとスコット E・パラジンスキーはシャトルミッション中に初の米露共同船外活動を行い、ロシア人がアメリカの宇宙服を着た最初の例にもなった。5時間の宇宙遊泳の間、2人は将来行われるであろうスペクトルの外殻からの空気漏れをふさぐ試みのために55kgのソーラーアレイキャップをミールドッキングモジュールに取り付けた。このミッションは試料、ハードウェア、古いエレクトロン酸素発生器を地球に戻された。ウルフは本来最後のミール宇宙飛行士として予定されていたが、ウェンディ・ローレンスの代わりにインクリメントとして選ばれた。衝突事故後の新しい方針が作られ、ロシア側は要求事項としてすべてのミールのクルーが宇宙遊泳の訓練・準備を行うことを求めていたが、ロシアの宇宙服はローレンスに合わず、体に合う宇宙服が打ち上げまでに調達できなかったためにローレンスは不適格と判断された。
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