りゅう‐てん〔リウ‐〕【流転】
読み方:りゅうてん
⇒るてん(流転)
る‐てん【流転】
流転
流転
流転
流転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/05 15:14 UTC 版)
流転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/06 14:33 UTC 版)
その後、妹・起美の嫁ぎ先である安芸郡和食村(現高知県安芸郡芸西村和食)の千屋家(菅野覚兵衛の実家)の世話になったが、覚兵衛が海軍省へ出仕して米国へ留学することになって千屋家にも居られなくなり、明治2年(1869年)中頃に土佐を出ることになった。出立する際に龍馬からの数多くの手紙は他人に見せたくない二人だけのものとし、すべて燃やすよう依頼しており、このためお龍宛ての龍馬の手紙は1通を残して全て失われてしまった。お龍が一時期逗留した芸西村には「お龍と起美の銅像」が建立されている。 土佐を出たお龍は寺田屋お登勢を頼りに京都へ行き、龍馬の墓所近くに庵を結んで墓守をしながら暮らしていたが、やがて京都にも居づらくなり、東京へ出た。お龍は東京で知人の勝海舟や西郷隆盛を頼り、同情した西郷は金20円を援助したが、丁度征韓論に敗れて下野する時期で、帰ったら世話をすると約束されたものの、それきりとなってしまった。 その後は元薩摩藩士の吉井友実や元海援隊士の橋本久太夫の世話になった。一方で龍馬の家督を継いだ坂本直(高松太郎・小野淳輔)は、訪ねて来たお龍を冷たく追い返している。元海援隊士の間ではお龍の評判は悪く、維新後に出世した者も少なくなかったが彼女を援助する者は誰もいなかったといわれ、田中光顕(元陸援隊士で後に宮内大臣にまで出世)の回顧談によれば、瑞山会(武市半平太ら土佐殉難者を顕彰する会)の会合で、お龍の処遇が話題になった際にも妹婿の菅野覚兵衛にまで「品行が悪く、意見をしても聞き入れないので面倒はみられない」と拒否されたという。お龍は腹の底から親切だったのは西郷と勝そしてお登勢だけだったと語っている。
※この「流転」の解説は、「楢崎龍」の解説の一部です。
「流転」を含む「楢崎龍」の記事については、「楢崎龍」の概要を参照ください。
流転
「流転」の例文・使い方・用例・文例
流・転と同じ種類の言葉
- 流・転のページへのリンク