沢柳事件とは? わかりやすく解説

沢柳事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 05:25 UTC 版)

京都大学吉田寮」の記事における「沢柳事件」の解説

詳細は「沢柳事件」を参照 京都帝国大学では学問の自由大学の自治観点から、慣行的に教授任免教授会が行ってきた(教授会自治)。しかし1913年文部省任命した澤柳政太郎総長は、教授会同意なく文科大学理工大学の7名の教授免官した。法科大学(後の法学部)は仁保亀松学長中心に結束し、「教授人事権教授会にあり」と澤総長反旗を翻した。澤総長法科対立徐々に激化し、翌1914年1月15日法科全ての教授助教授抗議連帯辞職宣言する事態発展した。 築半年足らずの新寄宿舎もこの騒動巻き込まれた。この時点で新寄宿舎には117名の舎生がいたが、約半数60名弱は法科所属していたからである。教官失いそうになった法科学生は直ち行動開始した。同15日法科学生は臨時学生大会開催し最初に32名の委員選出した。6名は旧寄宿舎か新寄宿舎の舎生であった続いて吾人京都法科大学々生は誓て教官留任期す」こと、委員11名を東京派遣することを決議した上京委員東京行の汽車飛び乗り、翌16日午後に東京新橋降り立った一方京都残留委員は新寄宿舎会議室に「本部」を置き、以後はここを拠点運動をした。舎生の半数事件当事者だったこと、(当時にしては珍しく電話通じていたことが理由考えられる17日上京委員は早速、澤総長奥田義人文部大臣訪ねて意見交換陳情行った京都残留委員第一回学生大会決議文を「吾人京都法科大学々生は大学の自治学問独立為に、誓て教官留任期す」に修正する案を次回学生大会附す決め委員2名を東京追加派遣した18日上京委員は「本事件解決必ずや名士仲介によるべき」と予想し学会名士といわれる人々訪ね仲介要請する戦術を採った。しかし彼らは多忙ゆえ、中々面会叶わないのは悩みどころであった19日上京委員はこの日、元文相で前総長菊池大麓と、元文相の濱尾新訪ね菊池には面会拒否されたものの、濱尾との面会はかない充分に思うところ述べることができた。一方京都では二回目学生大会開催され決議文修正は「自明の理にしてその必要なし」と否決された。世間では新聞法科糾弾し有識者京大法科の廃止東大法科との合併主張するなどしており、法科学生はひどく気分悪くした。20日、三回目学生大会開催され、以下の決議文採択された。「吾人京都法科大学々生は、教官主張にして容れられざらんか、誓て教官各位進退を共にせんことを期す情勢変えるための博打であった21日上京委員法学者岡松参太郎訪ねた。本来、法学者富井政章訪ねる予定だったが、多忙につき面会は叶わなかった。一方法科学生は決議文を含む「宣言書」を公開し不退転の決意固めた。また奥田文相再度会見をするため、3名の委員宣言書携えて上京することとなった22日上京委員は3名と合流して大臣邸に向かった。彼らは奥田文相と約30分間面会し宣言書手渡して学生決心固いことを伝えることに成功した委員らは相当な手応え感じたようである。同日には富井政章と、同じく法学者穂積重遠仲介乗り出してくれるという嬉しニュース入ってきた。委員らは予想的中喜び以後運動停止し状況静観することとした。そして23日奥田文相は「教授任免ニ付テハ総長職権運用教授会協定スルハ差支ナク且ツ妥当ナリ」と(法科主張する教授会自治認め連帯辞職退学未然回避された。28日最後学生大会開かれ経緯会計報告が行われた。辞職撤回した教官たちの姿もあった。事件円満解決一同嬉々としており、仁保学長挨拶の後、全員法科大学歳を三唱した奥田文相梯子外された澤総長同年4月辞任京大去った。この事件機に京大を含む、国内の大学自治学問の自由大きく前進したとされる京大では総長学内選出行われるようになった。 ところで当時、新寄宿舎の舎生は月に一度手書きの舎内雑誌作成していたが、1914年1月には「大爆発号」を臨時増刊している。この号には桜島大正噴火と沢柳事件についての記事落書きなどが多数収録されている。

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澤柳事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 03:18 UTC 版)

京都大学」の記事における「澤柳事件」の解説

京都帝国大学では学問の自由大学の自治観点から、慣行的に教授任免教授会が行ってきた。しかし1913年文部省任命した澤柳政太郎総長は、教授会同意なく文科大学理工大学の7名の教授免官した。法科大学(後の法学部)は「教授人事権教授会にあり」と澤反旗を翻し、翌1914年1月には法科全ての教授助教授抗議連帯辞職宣言した教官失いそうになった法科学生は、教官復職教授会自治獲得等を目指し法科支持運動繰り広げた東大法科も京大法科を支援した結局奥田義人文相法科言い分認め後ろ盾失った辞任追い込まれた。教授会自治文相公認したことにより、京大他大学自治発展にも好ましい影響及ぼした。なお、京大ではこの事件契機に、総長学内選出求め運動起こり、これも数年後実現した詳細は「澤柳事件」を参照

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