水着としての六尺褌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 01:22 UTC 版)
日本人が海水浴(水泳)を始めるようになったのは明治時代に陸軍軍医の松本良順が健康に良いと海水浴を推奨したことから始まり、上流階級の一部から始まった。それまでは、漁師、船乗りや、武士階級の間で武術として日本泳法があったに過ぎなかった水泳が、全国に海水浴場が開設され、国民皆泳の名の下に学校教育でも水泳が体育教科として取り上げられたことで、庶民の間に海水浴(水泳)の習慣が拡がる第一歩となった。当時の上流階級は洋装の水着(水泳着)で海水浴を勤しんだが、まだまだ洋装の水着(水泳着)は庶民には高価で、一般庶民の水着は褌(六尺褌)や水衣が一般的なものであった。また、日本泳法の各流派は自派の泳法を教えるため、海水浴場などで水練場を開設した。水練場とは、海、川、池や堀を区切った箇所で泳法を学ぶ場を日本泳法関係者が使った呼称であり、一般には「水泳場」と呼ばれていた。 1917年(大正6年)に日本で初めて室内温水プールがYMCA(東京)で開設された。当時は水質の維持のため、水着の着用は禁止され、全裸で泳ぐように指導されていた。戦後もしばらくは全裸での水泳が続いていた。これは、本国の米国でもYMCAや大学ではプールでは全裸で泳ぐことが普通であったことにもよるものであった。 1930年代(昭和)に入り、全国各地でプールが開設された。因みに、明治神宮外苑プールは1937年(昭和12年)に建設されている。 キリスト教徒とその関係者だけに開放されていたYMCAとは違い、一般庶民に開放されたことで、庶民に水泳が普及した。庶民の水着は依然と褌(六尺褌)や水衣だった。この頃から簡易褌として黒猫褌が出現し、男児を中心に普及した。 1928年(昭和3年)のアムステルダムオリンピックの競泳で、初の金メダル獲得から水泳人気は高まり、水泳は国民的スポーツとなった。1932年(昭和7年)のロサンゼルスオリンピック競泳で5種目を制したことから「水泳王国」として日本が世界に認知されるようになった。 オリンピックの公式競技では使用されなかったが、1936年(昭和11年)のベルリンオリンピックでは、日本人選手が現地での練習で六尺褌を使用していたところ、日本人選手の速さの秘密は水着の褌にあるのではないかと日本人選手に外国人記者の取材が殺到し、褌姿の選手と一緒の記念撮影を求められたこともあった。実際、日本人選手は水着の下に六尺褌をサポーターとして使用していた。 戦後の国体でも使用されていたが、占領米軍が臀部が露出することは野蛮であるとして、接収した明治神宮外苑プールで禁止し、選手は米軍関係者の前では六尺褌の上に水泳パンツをはいて競技を行った。 その後、合成繊維の開発が進み、伸縮性のある水着に適した生地が出現したことや、縫製技術も進歩したこともあり公式競技では褌は使われなくなった。また、日本の経済成長が進み、水泳パンツが廉価で入手できるようになったことや、国民所得が上昇したことで、個性を求めて、ファッション性のある水着が求められるようになり、臀部が露出する褌は恥ずかしいと、下着と同様、1960年代頃(昭和30年半ば頃)から、褌は若者から次第に廃れて行った。1960年代半ば頃(昭和40年代初頭)には、都市部の小中学校で水着に用いられて褌は廃止の方向に向かい、現在では日本泳法の流れを汲むごく一部の学校で使われるのみとなった。褌が普通に散見された一般のプールでも褌の利用者がほとんど見られなくなり、一部のプールではポケットのついたトランクス水着や下着と紛らわしい褌を禁じるプールも出現し、プールで褌は禁止されているとの誤解が広まった。 1980年代末頃(平成元年頃)から、褌に形の似たTバック水着が欧米から伝わり、バブル期に男女とも最も流行した。そして1992年(平成4年)、Tバック水着の男性が多数来場していた神宮プールにおいて、臀部が露わなTバック水着に対する苦情が噴出し、Tバック水着と共に褌も禁止されるという事態となった。 その後のインターネットの発達に伴い、Tバック水着で泳げるとネット上で話題になったプールにTバック水着の男性や、布の少ない、透ける過激な水着の男性が殺到したことから、他の客から苦情が噴出し、褌まで禁止となる事態が毎年のように起きるようになった。そのため、特に大都市で褌禁止のプールが少しずつ増えているが、2005年(平成17年)時点では東京においても褌を禁止するプールの方が少ない。一方、中南米労働者の多い地域など外国人の多く来るプールではTバック水着の女性が多く、形の似ている褌に対して寛容である。また、国際的には、ニュージーランドで開催された第五回環太平洋マスターズ水泳選手権大会で六尺褌での出場を希望した日本人選手がおり、長い議論の末に日本の伝統的水着と認められ、褌で出場し優勝している。 ただし今日もなお、日本の古式泳法では伝統を守って六尺褌を用いているところもある。 1972年、学習院在学中の天皇徳仁は、あかふんどしをしめて水泳合宿に参加した。
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