民藝活動へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 13:29 UTC 版)
1913年(大正2年)、東京帝国大学文科大学哲学科心理学専修を卒業。卒業論文は残されていないが、のちに宗悦自身はこの時「心理学は純粋科学たり得るか」という論題に取り組んだと述べている。この時の結論は心理学は純粋科学とはなり得ないというのであり、当時の主流であった実験心理学の流れに逆らうものであった。また、アカデミズムに対する違和感を覚え、のちに妻となる中島兼子に、もう2度とアカデミズムには戻りたくないと述べた手紙を送っている。このような背景から、こののちの宗悦は独自の学問を形成していくこととなった。このころからブレイクの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となった。 1914年(大正3年)2月、かねてから交際していた声楽家の中島兼子と結婚。結婚後、しばらく二人は離れて住んだが、同年9月に宗悦の母の弟である嘉納治五郎が我孫子に別荘と農園を構えていた縁で、同地に転居した。やがて我孫子には志賀直哉、武者小路実篤ら白樺派の面々が移住し、旺盛な創作活動を行った。陶芸家の濱田庄司との交友もこの地ではじまる。 当時、白樺派の中では、西洋美術を紹介する美術館を建設しようとする動きがあり、宗悦たちはそのための作品蒐集をしていた。彼らはフランスの彫刻家ロダンと文通して、日本の浮世絵と交換でロダンの彫刻を入手する。 宗悦が自宅で保管していたところ、朝鮮の小学校で教鞭をとっていた浅川伯教が、その彫刻を見に宗悦の家を訪ねてくるが、その際、浅川が手土産に持参した「染付秋草文面取壺」を見て宗悦は朝鮮の工芸品に心魅かれる。1916年(大正5年)以降、たびたび朝鮮半島を訪ね、朝鮮の仏像や陶磁器などの工芸品に魅了された 。1924年(大正13年)にはソウルに「朝鮮民族美術館」を設立、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器を展示し、その中の美を評価した。 1919年(大正8年)に東洋大学教授となり、1921年(大正10年)からは明治大学予科にも出講した。 1923年(大正12年)の関東大震災を機に京都へ転居し、同志社大学と同志社女学校専門学部、関西学院の講師となる。木喰仏に注目し、1924年から全国の木喰仏調査を行う。民衆の暮らしのなかから生まれた美の世界を紹介するため、1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い、翌年、陶芸家の富本憲吉、濱田庄司、河井寛次郎の四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。『工藝の道』(1928年刊)では「用と美が結ばれるものが工芸である」など工芸美、民藝美について説いた。 1931年(昭和6年)には、雑誌『工藝』を創刊、民芸運動の機関紙として共鳴者を増やした。1934年(昭和9年)、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立される。1936年(昭和11年)に、実業家大原孫三郎の支援により、宗悦が初代館長となり東京駒場に日本民藝館を創設した。また沖縄・台湾などの南西諸島の文化保護を訴えた。 1957年(昭和32年)、「民藝理論の確立・日本民藝館の設立・民芸運動の実践の業績」により、文化功労者に顕彰された。
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