民芸運動に対する評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 05:17 UTC 版)
民芸運動は熱烈に歓迎されるか、無関心、不快のうちに黙殺される傾向にあった。正面切って民芸運動を批判した数少ない人物の一人として北大路魯山人が挙げられる。北大路は1930年から31年にかけて自身の主宰する『星岡』において激しい非難を浴びせたが、柳らはこれを黙殺した。 むしろ、運動から離脱していく者から批判が加えられる事態が幾度か見られている。富本憲吉は手仕事における機械の使用に対する見解の不一致から、理論的に折り合いがつかなくなり離脱した。また、三宅忠一は個人作家が民芸に関与することの弊害を説き、個人作家と職人の共存を望む柳と意見が合わず、民芸運動を離脱して新たに日本民藝協団を設立した。民芸運動の理論は柳個人が支える部分が大きく、同じく離脱した青山二郎は「柳宗悦個人の意識を民藝の美と称するものから取去つて見給へ、美術館は消えてなくなるだろう。だからその他大勢は概念の虜である」と述べている。
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