殷時代後期(紀元前1300年頃 - 前1050年頃)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:45 UTC 版)
「中国の青銅器」の記事における「殷時代後期(紀元前1300年頃 - 前1050年頃)」の解説
河南省安陽市の北郊の小屯村では殷代後期の宮殿址と王墓が発掘された。この遺跡は殷墟と呼ばれ、殷の11代盤庚がここに遷都し、30代帝辛(紂王)までの二百数十年間の王都であったとみなされている。ここからは亀甲や獣骨に刻まれた卜占用の文字、いわゆる甲骨文字が大量に発見され、殷が伝説上の存在ではなく歴史上実在した王朝であることを実証したことでも知られている。なお、近年は殷墟の北方に洹北商城遺跡が新たに確認され、盤庚の居城は洹北商城にあったのではないかとする説も出てきている。 奴隷制王朝の殷において、支配者たる王は絶対的な権力を有していたが、その王が唯一恐れたものが「神」の存在であった。当時の人々は天帝を中心に多くの神が存在すると考え、祖先も祖先神として敬われた。当時の支配体制は祭政一致で、王は天帝によって任命されるものとされ、人の運命・病気・天災・農耕・戦争など、ものごとの可否はすべて天帝や祖先神の意思によって決まると信じられていた。したがって、こうした神々を祀る祭祀は重要事であり、さまざまな青銅器は祭祀の用具として作られ、有力者が死亡するとその墓には大量の青銅器が副葬された。漢字の起源である甲骨文字が現れたのもこの時代であるが、それらの文字も、天帝の意思を知るための卜占に用いられたものであった。王の権力はさらに強大化・絶対化し、王を中心とする秩序を守るため、特に武丁以降、礼制が強化された。礼とは現代で言う礼儀作法にとどまらず、国家の秩序を守るための社会制度、生活規範等の総体を意味した。王墓は巨大化し、多数の青銅器の副葬とともに、多くの殉死者を伴っていた。殉死者の遺体は首と胴体が分離した形で大量に埋められていた。こうした事実は、この時代が技術的進歩の一方で、祭政一致の神権政治の時代であったことがあらためて首肯される。 殷墟文化は細かくは第1期から第4期に分かれ、第1期は盤庚の時代、第2期は武丁の時代に相当する。殷墟文化期は中国古代青銅器の製作がピークに達した時代である。器種は多様になり、酒器は爵が減少して尊・卣が主体となり、觶・瓿・壺・斝・盉なども作られて機能別に分化している。細かくみれば、初期には有肩尊と瓿、次いで断面が偏円の壺、さらに卣と觚形尊というように、主力となる器種が変化している。食器では鼎・鬲・甗・簋などがある。殷墟晩期に特有の器種としては器全体が動物を象った器があり、これには兕觥・鳥獣型尊・鳥獣型卣がある。兕觥とは、カレーソースの容器のような形状の器に蓋を伴い、全体は虎などの動物を象った器である。殷墟文化期の青銅器はますます大型化した豪壮なものになるとともに、文様表現は緻密化している。文様は立体化の度合いを強め、地文と主文の区別が明瞭化し、地文から饕餮や鳥獣などの形態が浮き出るような表現になっている。地文も羽状文・雷文などの精巧な線条によってきめ細かく表されている。この時期の大規模墓はことごとく盗掘され、出土青銅器は海外に持ち出されたものも多いが、唯一の例外は殷墟5号墓(婦好墓)である。この墓は東西4メートル、南北5.6メートルほどの中規模の墓であるが、盗掘を受けておらず、青銅器・玉器・骨角器・石器などの副葬品が埋葬時の状態で出土した。出土した青銅器は486点を数え、爵40点・觚53点をはじめ、鼎・甗・方彝・尊・卣・壺・兕觥・盉・盤などがあった。器の銘から、この墓の主は武丁王妃の婦好という女性であったことがわかる。当時の大規模な墓はすべて盗掘されているが、中規模の婦好墓にも上述のような大量の副葬品があったことから、大規模な墓にはさらに多数の副葬品があったことが想定される。 この時代には器に銘字を鋳出するものが現れるが、長文の銘はなく、器の所有者が属する一族の名と、その器を祀る対象となる祖先の名を記す程度で、器の所有者本人の名前は記されない。氏族名はシンボルマークのような象形文字で表され(族記号)、祖先の名は「父」「母」「兄」などの文字と十干(甲乙丙丁など)の組み合わせで表記される。一例として「隹父癸尊」(すいふきそん)という尊は「隹父癸」という銘があることからこの名で呼ばれるが、「隹」氏一族に属する者が父の「癸」のために作ったという意味で、作器者本人の固有名はここにはない。
※この「殷時代後期(紀元前1300年頃 - 前1050年頃)」の解説は、「中国の青銅器」の解説の一部です。
「殷時代後期(紀元前1300年頃 - 前1050年頃)」を含む「中国の青銅器」の記事については、「中国の青銅器」の概要を参照ください。
- 殷時代後期のページへのリンク