殷浩との対立
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蜀平定の功績により桓温の声望は大いに振るったので、朝廷は彼を制御出来なくなるのを憂慮して警戒を強めていた。揚州刺史殷浩は大いに名声を博していたので、会稽王司馬昱は彼を朝政に参与させる事で桓温を抑え込もうとした。 桓温は自ら兵士・物資をかき集め、次第に荊州で半独立状態となり、不臣の心を抱くようになっていった。朝廷は彼を建康に招くことは出来ないと知っていたが、敢えて幾度も招聘を掛けて彼の心を繋ぎ止めようとした。国内でもまだ変事は起きていなかったので、表面上は君臣の仲はまだ良好であった。 永和5年(349年)4月、桓温は督護滕畯に交州・広州の兵を与え、林邑国を征伐させた。滕畯は盧容において国王の范文と交戦したが、敗北を喫して九真まで撤退した。 6月、後趙皇帝石虎が崩御すると、桓温は北伐を敢行して中原を奪還する絶好の好機と捉え、安陸へ出鎮して諸将に北方を窺わせた。また、併せて朝廷へ上疏し、水軍・陸軍の動員を請うたが、長い間返答はなかった。 後に殷浩らが作戦に反対していることを知り、桓温はひどく憤った。その一方、殷浩の事を大した人物ではないと見做していたので、全く恐れてはいなかったという。その後も数年に渡り幾度も北伐を要請したが、朝廷が聞き入れる事は無かった。 永和6年(350年)11月、氐族酋長苻健(前秦の初代君主)が長安を占拠すると、彼は表向きは東晋の臣を称していたので、桓温の下へ使者を派遣して誼を通じたという(但し、翌年1月には再び態度を翻して自立し、前秦を建国する)。 永和7年(351年)12月、桓温は全く動こうとしない朝廷に痺れを切らし、再び上奏文を送ると共に5万の軍を率いて長江を下って武昌に駐留し、建康を威圧した。桓温到来の報に朝廷は震え上がり、殷浩は辞職して桓温に実権を譲ろうとした。また、騶虞幡(晋代の皇帝の停戦の節)を立てて、桓温軍を留めようとした。内外では様々な噂が飛び交い、桓温の謀反を疑って人心は動揺した。司馬昱は桓温に書を送って国家の方針を説明し、また朝廷より疑惑を抱かれていることを忠告した。これを受けて桓温は軍を返すと共に上疏して、武昌へ軍を動かしたのは趙・魏の地を掃討するための準備であり、(桓温が反乱を目論んでいるという)疑惑について弁明した。また、北伐が許可されない件について不満を漏らし、朝廷内に蔓延る佞臣の存在を痛烈に批判した。後に桓温は太尉に進められたが、これを固辞した(太尉になるということは中央へ帰還するということであり、事実上桓温の軍権を奪い去る為の措置であった)。 永和8年(352年)2月、益州牧を自称して益州で反乱を起こしていた蕭敬文討伐の為、督護鄧遐・益州刺史周撫を涪城へ侵攻させたが、彼らはこれを撃ち破る事が出来ずに撤退した。8月、さらに梁州刺史司馬勲を派遣し、周撫らに協力させた。彼らは涪城を守る蕭敬文を撃ち破ると、その首級を挙げた。 永和8年から翌9年(353年)にかけて、殷浩は数度に渡り北伐を敢行したが、幾度も敗北を繰り返して兵器を使い切ってしまったので、天下より謗られる事となった。永和10年(354年)1月、官民が殷浩の失敗を甚だ恨んでいるのを見て、桓温は殷浩の罷免を上奏した。上奏は認められ、殷浩は庶人に落とされた。これにより内外の大権は全て桓温の手中に入り、桓温の北伐を止められる者は誰もいなくなった。
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