殷浩との対立とは? わかりやすく解説

殷浩との対立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 13:45 UTC 版)

桓温」の記事における「殷浩との対立」の解説

蜀平定功績により桓温声望大い振るったので、朝廷は彼を制御出来なくなるのを憂慮して警戒強めていた。揚州刺史殷浩大い名声博していたので、会稽王司馬昱は彼を朝政参与させる事で桓温抑え込もうとした。 桓温は自ら兵士物資をかき集め次第荊州半独立態となり、不臣の心を抱くようになっていった。朝廷は彼を建康に招くことは出来ない知っていたが、敢えて幾度も招聘掛けて彼の心を繋ぎ止めようとした。国内でもまだ変事起きていなかったので、表面上は君臣の仲はまだ良好であった永和5年349年4月桓温は督護滕畯に交州広州の兵を与え林邑国を征伐させた。滕畯は盧容において国王范文交戦したが、敗北喫して九真まで撤退した6月後趙皇帝石虎崩御すると、桓温北伐敢行して中原奪還する絶好好機捉え安陸へ出鎮して諸将北方を窺わせた。また、併せて朝廷上疏し、水軍陸軍動員請うたが、長い間返答はなかった。 後に殷浩らが作戦反対していることを知り桓温はひどく憤った。その一方殷浩の事を大した人物ではないと見做していたので、全く恐れてはいなかったという。その後数年渡り幾度も北伐要請したが、朝廷聞き入れる事は無かった永和6年350年11月氐族酋長苻健前秦初代君主)が長安占拠すると、彼は表向き東晋の臣を称していたので、桓温の下へ使者派遣して誼を通じたという(但し、翌年1月には再び態度翻して自立し前秦建国する)。 永和7年351年12月桓温は全く動こうとしない朝廷痺れ切らし、再び上奏文を送ると共に5万の軍を率いて長江下って武昌駐留し建康威圧した桓温到来の報に朝廷震え上がり殷浩辞職して桓温実権譲ろうとした。また、騶虞幡(晋代皇帝停戦の節)を立てて桓温軍を留めようとした内外では様々な噂が飛び交い桓温謀反疑って人心動揺した司馬昱桓温に書を送って国家方針説明し、また朝廷より疑惑抱かれていることを忠告した。これを受けて桓温は軍を返すと共に上疏して、武昌へ軍を動かしたのは趙・魏の地を掃討するための準備であり、(桓温反乱目論んでいるという)疑惑について弁明したまた、北伐許可されない件について不満を漏らし朝廷内に蔓延る佞臣存在痛烈に批判した。後に桓温太尉進められたが、これを固辞した太尉になるということは中央帰還するということであり、事実上桓温の軍奪い去る為の措置であった)。 永和8年352年2月益州牧を自称して益州反乱起こしていた蕭敬文討伐の為、督護鄧遐益州刺史周撫を涪城侵攻させたが、彼らはこれを撃ち破る事が出来ず撤退した8月、さらに梁州刺史司馬勲派遣し、周撫らに協力させた。彼らは涪城を守る蕭敬文撃ち破ると、その首級挙げた永和8年から翌9年353年)にかけて、殷浩数度渡り北伐敢行したが、幾度も敗北繰り返して兵器使い切ってしまったので、天下より謗られる事となった。永和10年354年1月官民殷浩失敗甚だ恨んでいるのを見て桓温殷浩罷免上奏した。上奏認められ殷浩庶人落とされた。これにより内外大権全て桓温の手中に入り桓温の北伐止められる者は誰もいなくなった

※この「殷浩との対立」の解説は、「桓温」の解説の一部です。
「殷浩との対立」を含む「桓温」の記事については、「桓温」の概要を参照ください。

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