殷浩との抗争
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当時、寿春を鎮守していた東晋の中軍将軍・揚州刺史殷浩は姚襄が強盛である事を妬み、またその威名を恐れていた。ある時、姚襄の配下で殷浩に帰順しようとする者がいたが、姚襄はこれを誅殺した。これを聞いた殷浩は遂に姚襄誅殺を目論み、まずその諸弟を捕らえると、幾度も刺客を派遣して姚襄を刺殺しようとした。だが、刺客はみな寝返って内情を漏らし、姚襄は彼らを旧臣のように遇した。殷浩はさらに将軍魏憬に五千余りの兵を与えて姚襄を襲わせたが、姚襄はこれを返り討ちにして魏憬を斬り殺し、その兵を吸収した。殷浩は益々憎しみを深め、龍驤将軍劉啓に譙を守らせ、姚襄を梁国の蠡台に移らせ、上表して梁国内史に任じた。 その後、魏憬の子弟が幾度も寿春を往来するようになると、姚襄は殷浩の謀略を益々疑い、参軍権翼を殷浩の下に派遣した。殷浩は権翼を迎え入れて「我と姚平北(姚襄のこと。この時平北将軍であった)は共に王臣であり、苦楽を同じくしている。平北はいつも勝手に振る舞い、甚だ輔車の理を失しているといえよう。どうしてこれに期待しようか!」と述べると、権翼は「平北の英姿は絶世であり、数万の兵を擁し、遠方より晋室に帰順しました。朝廷が道を有し、宰輔が明哲であるが故です。今、将軍は軽々しく讒慝(邪悪・奸佞)の言を信じ、平北との間に隙が生じております。愚考ながら、猜嫌の端はここにあり、彼にはないかと存じます」と言い返した。殷浩は「平北の姿性は豪邁であるが、生殺を自由にしている。また、小人に好き勝手にさせ、我の馬を略奪させている。王臣の礼とはこのようであったかね」と問うと、権翼は「平北は聖朝に帰命したのに、どうして妄りに無辜を殺しましょうか。悪党というものは王法が容れるところではありません。これを殺してどのような害がありましょうか!」と述べた。殷浩は「それならば我の馬を掠したことはどうなのだ」と問うと、権翼は「将軍は平北が雄武で制するのは難しいことから、これを討伐せんとしております。故に自衛のために馬を取ったまでです」と答えた。殷浩は笑って「どうしてこのようなことになってしまったのだろうな」と述べ、権翼を帰らせてやった。 その後、殷浩は将軍謝万に姚襄を討たせたが、姚襄は返り討ちにした。これにより、殷浩はさらに激怒した。 10月、殷浩は7万の兵を率いて北伐を敢行すると、姚襄をその前鋒とした。姚襄はこれに呼応する振りをして兵を率いて北へ向かうと、殷浩が到来する頃合いを見計らい、密かに夜闇に紛れて伏兵を配した。殷浩は姚襄を追って山桑まで至ったが、姚襄はこれを迎え撃ち、殷浩を大敗させた。殷浩は輜重を放棄して逃走し、譙城に入った。姚襄は1万人余りを俘斬し、その物資を尽く手に入れた。捕らえた士卒の多くが逃亡すると、姚襄は兄の曜武将軍姚益に山桑の砦を守らせ、自らはまた淮南へ向かった。 11月、殷浩はまたも龍驤将軍劉啓・王彬之を派遣して山桑を攻撃すると、姚襄は淮南から救援に向かい、劉啓・王彬之を破って両者を討ち取った。その後、進軍して芍陂に拠った。 12月、鼓行しながら淮河を渡り、盱眙に駐屯した。ここで流民を招掠すると、その兵は7万を数えた。各拠点に守宰を配置して農耕と養蚕を振興すると、さらに建康へ使者を派遣して殷浩の罪状を報告すると共に、混乱を招いたことを陳謝した。
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