殷浩との抗争とは? わかりやすく解説

殷浩との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/29 06:42 UTC 版)

姚襄」の記事における「殷浩との抗争」の解説

当時寿春鎮守していた東晋中軍将軍揚州刺史殷浩姚襄強盛である事を妬み、またその威名恐れていた。ある時、姚襄配下殷浩帰順しようとする者がいたが、姚襄はこれを誅殺した。これを聞いた殷浩遂に姚襄誅殺目論み、まずその諸弟を捕らえると、幾度も刺客派遣して姚襄刺殺ようとした。だが、刺客はみな寝返って内情漏らし姚襄は彼らを旧臣のように遇した殷浩はさらに将軍魏憬に五千余りの兵を与えて姚襄を襲わせたが、姚襄はこれを返り討ちにして魏憬を斬り殺し、その兵を吸収した殷浩益々憎しみ深め龍驤将軍劉啓に譙を守らせ、姚襄梁国の蠡台に移らせ、上表して梁国内史任じたその後、魏憬の子弟が幾度も寿春往来するうになると、姚襄殷浩謀略益々疑い参軍権翼殷浩の下に派遣した殷浩権翼迎え入れて我と姚平北(姚襄のこと。この時平将軍であった)は共に王臣であり、苦楽同じくしている。平北はいつも勝手に振る舞い甚だ輔車の理を失しているといえよう。どうしてこれに期待しようか!」と述べると、権翼は「平北英姿絶世であり、数万の兵を擁し遠方より晋室に帰順しました。朝廷が道を有し宰輔明哲であるが故です。今、将軍軽々しく讒慝(邪悪奸佞)の言を信じ平北との間に隙が生じております愚考ながら、猜嫌の端はここにあり、彼にはないか存じますと言い返した殷浩は「平北の姿性は豪邁であるが、生殺自由にしている。また、小人好き勝手にさせ、我の馬を略奪させている。王臣の礼とはこのようであったかね」と問うと、権翼は「平北聖朝帰命したのに、どうして妄りに無辜殺しましょうか悪党というものは王法容れるところではありません。これを殺してどのような害がありましょうか!」と述べた殷浩は「それならば我の馬を掠したことはどうなのだ」と問うと、権翼は「将軍平北雄武制するのは難しいことから、これを討伐せんとしております故に自衛のために馬を取ったまでです」と答えた殷浩笑って「どうしてこのようなことになってしまったのだろうな」と述べ権翼を帰らせてやった。 その後殷浩将軍姚襄を討たせたが、姚襄返り討ちにした。これにより、殷浩はさらに激怒した10月殷浩は7の兵を率いて北伐敢行すると、姚襄をその前鋒とした。姚襄はこれに呼応する振りをして兵を率いて北へ向かうと、殷浩到来する頃合い見計らい密かに夜闇紛れて伏兵配した殷浩姚襄追って山桑まで至ったが、姚襄はこれを迎え撃ち殷浩大敗させた。殷浩輜重放棄して逃走し譙城入った姚襄1万余りを俘斬し、その物資を尽く手に入れた捕らえた士卒多く逃亡すると、姚襄は兄の曜武将軍姚益に山桑の砦を守らせ、自らはまた淮南向かった11月殷浩はまたも龍驤将軍劉啓王彬之を派遣して山桑攻撃すると、姚襄淮南から救援向かい劉啓王彬之を破って両者討ち取ったその後進軍して芍陂に拠った。 12月、鼓行しながら淮河渡り盱眙駐屯した。ここで流民を招掠すると、その兵は7数えた。各拠点に守宰を配置して農耕養蚕振興すると、さらに建康使者派遣して殷浩罪状報告すると共に混乱招いたことを陳謝した。

※この「殷浩との抗争」の解説は、「姚襄」の解説の一部です。
「殷浩との抗争」を含む「姚襄」の記事については、「姚襄」の概要を参照ください。

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