殷時代前期(紀元前1600年頃 - 前1300年頃)
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「中国の青銅器」の記事における「殷時代前期(紀元前1600年頃 - 前1300年頃)」の解説
河南省鄭州市の二里岡遺跡を標式遺跡とする文化を二里岡文化という。これは前節で述べた二里頭文化に続く時期の文化であり、その上限は紀元前16世紀とされている。二里岡では1970年に大規模な都城址(鄭州商城)がみつかった。その規模からみて、これを殷の都城とすることには異論はないが、これを殷王朝の創設者天乙(湯王)の都・亳とみるか、10代仲丁の都の隞(囂)とみるかで意見が分かれる。二里頭遺跡近くで発見された偃師商城遺跡(1983年発見)との関連も含め、この問題についてはなお検討を要する。いずれにしても、青銅器の編年のうえでは、二里頭文化期に続き、殷墟文化期に先行するのがこの文化である。 二里頭文化が、現代の河南省と山西省にまたがる比較的狭い地域にしか広がりを持たなかったのに対し、二里岡文化は北は河北省、南は湖北省、東は山東省および安徽省、西は陝西省に至り、東西約2,000キロ、南北約1,300キロの広大な地域に及んでいる。この文化期の青銅器の特色としては、以下のことが挙げられる。まず、青銅器の出土地が広域にわたるとともに、出土品の数量が増え、器自体は大型化し、鋳造技術も二里頭期よりは向上している。二里頭期には青銅器は貴重品であり、限られた層の人々によって、祭祀などの特別の機会にのみ用いられたと考えられる。二里岡文化期においても、青銅器が単なる日用品ではなく、祭祀などの特別な用途のためのものであった点は変わりないが、出土品の数量は二里頭期よりは大幅に増加している。二里頭期の青銅礼器は酒器に限られ、器種も少なく、小型の爵にほぼ限定されていたが、二里岡文化期には觚(飲酒器)、斝(温酒器)、盉(注酒器)・尊・罍(以上盛酒器)、鼎・鬲・簋(以上食器)、盤(水器)などの器種が登場し、酒器・食器・水器などの基本的器種が出揃っている。二里頭期の青銅器は無文か、文様があっても隆起線文、連珠文などのごく簡略なものであったが、二里岡文化期の青銅器には複雑な文様が施されるようになり、饕餮文と呼ばれる、大きな眼を強調した獣面文や、横方向に展開する動物文が登場する。ただし、後代の青銅器のような彫りが深く、立体的に浮き出すような文様とは異なり、二里岡文化期の青銅器の文様は線刻主体の平面的なものである。前代に比べて大型の器が作られるようになったこともこの期の特色である。一例として、鄭州城外、張寨南街出土の方鼎は重さ82.5キログラムもあり、23箇の鋳型を使い、いくつかの部分に分けて鋳造したものを溶接して作られたもので、この時期すでにこうした大型で複雑な作品を鋳造するだけの技術水準があったことがわかる。前述のように、この文化期の遺跡は広範囲に分布しているが、いずれの地域においても青銅器の器種や文様は共通している。青銅器の鋳型や坩堝(るつぼ)も各地で出土していることから、中央で製作された青銅器が地方へ運ばれたのではなく、共通した様式の青銅器が各地で製作されたことがわかる。 殷代における青銅礼器は、神や祖先の霊を祀る祭器としての用途と、墓の副葬品(明器)としての用途が主であり、酒器が重要な役割を果たした。特に爵・觚・斝の3種がセットで出土することが多い。この時期には支配者の権力が強大化するとともに、階層の分化が起こり、小規模墓にも青銅器が副葬されるようになった。小型の墓からも爵・觚・斝のセットが出土するが、觚または斝を陶器製とするものもある。このような場合にも爵を陶器製とする例はほとんどみられず、このことは爵がもっとも重要な祭器であったことを意味する。殉死者を伴う墓もあるが、これは二里頭期には見られなかったものである。殉死者を伴うのは有力者を葬った大規模墓であり、こうした大規模墓には多量の青銅器が副葬された。
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