二里頭文化期(おおよそ紀元前1700年頃 - 前1600年頃)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 17:45 UTC 版)
「中国の青銅器」の記事における「二里頭文化期(おおよそ紀元前1700年頃 - 前1600年頃)」の解説
最初期の青銅器を出土する遺跡として、河南省洛陽市偃師区の二里頭遺跡がある。第二次世界大戦後の中国では各地で大規模な遺跡の発掘があり、それに伴って従来の歴史観も修正を余儀なくされているが、二里頭遺跡も1950年代末に確認されたものである。この遺跡を標式遺跡とする文化を二里頭文化と呼び、その年代はおおむね西暦紀元前2000年紀の前半にあたる。この文化は、河南省鄭州市の二里岡遺跡を代表遺跡とする二里岡文化、さらに河南省安陽市の殷墟を代表遺跡とする殷墟文化へと継承されていく。二里頭遺跡の文化層は古い方から第1期 - 第4期に分かれ、第1・2期を二里頭下層文化(または早期二里頭文化)、第3・4期を二里頭上層文化(または晩期二里頭文化)という。青銅製の礼器が出土するのは第3期以降であり、これは宮殿遺跡や大規模墓葬の出現とほぼ時期を同じくしている。これらの文化層が夏・殷(商)のいずれの王朝に属するかについては諸説ある。二里頭文化全体を夏文化とする説がある一方で、二里頭1・2期は夏、二里頭3・4期は殷の初期とする説があり、夏王朝の実在自体を認めない立場もある。二里頭遺跡は、殷の遺跡であることが明らかな河南省鄭州の二里岡遺跡より先行することは明らかである。中国の学界では二里頭遺跡を夏の文化とする意見が多いが、この遺跡からは文字が発見されていないこともあり、これを「夏文化」と呼ぶことには、なお慎重な意見もある。いずれにしても、二里頭上層文化は、中国で青銅礼器を伴う最古の文化である。『史記』によれば、殷王朝の創始者である天乙(太乙・成湯・湯王などとも)は、夏の桀王を滅ぼし、都を亳(はく)に置き、後に西亳に遷った。この亳および西亳の所在地についても諸説ある。二里頭遺跡が亳であったとする説もあるが、1983年に二里頭遺跡の近くの尸郷溝で都城遺跡(偃師商城)が見つかってからは、こちらが天乙の築いた都城、すなわち亳であるとも言われている。 二里頭文化の及んだ範囲は、河南省の黄河南岸(洛陽周辺)と山西省南部の汾河流域の平原を含む地域であり、後の諸文化に比べると、この文化の影響が及んだ範囲は比較的狭い範囲に限定される。この時代の青銅器の代表的遺物は酒器の一種である爵であり、他に青銅製品としては戈(か)・戚(せき)・鏃(ぞく、やじり)などの武器類や、小刀・鈴などが発掘されている。 爵は温酒器の一種で、くびれた胴部に細長い三足と把手を有し、口縁部は一方に「流」(樋状の注口)、一方に「尾」(三角形の突起)を有する複雑な器形を呈する。把手を手前に向けて置いた場合、左側に「流」、右側に「尾」が位置するのが通例である。中国における青銅の礼器としてはもっとも早く登場したもので、当時の宗教儀礼において重要な役割を果たした器であったとみられる。初期の爵は平底で、器形は陶器の「鬹」(き)に祖形がある(「鬹」は上半分が「規」、下半分が「鬲」)。出土した爵の中には煤の付着したものがあり、実際に温酒に使用されたことがわかる。爵は温酒器と飲酒器を兼ねていたという説もあり、当時の人々は神は爵で酒を飲むと考えていたとみられる。二里頭期の爵は銅厚が薄手で、銅質も劣り、後の青銅器と異なって器表にほとんど文様を表さないなど、初期的要素が目立つ。二里頭3期の爵はほとんど無文だが、二里頭4期になると、隆起線文、乳釘文(連珠文)などがわずかにみられる。二里頭期の青銅礼器としては他に斝がわずかにみられるのみである。爵、斝ともに酒器で、それ以外の礼器(食器、水器等)はまだ登場していない。爵はいずれも高さ十数センチから二十数センチ程度の小型のもので、鼎や尊のような巨大なものはない。
※この「二里頭文化期(おおよそ紀元前1700年頃 - 前1600年頃)」の解説は、「中国の青銅器」の解説の一部です。
「二里頭文化期(おおよそ紀元前1700年頃 - 前1600年頃)」を含む「中国の青銅器」の記事については、「中国の青銅器」の概要を参照ください。
- 二里頭文化期のページへのリンク