殷烈公派
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殷烈公派は高麗時代の姜邯賛将軍の副将として契丹を破った殷烈公姜民瞻将軍を中始祖とする派である。姜民瞻は高麗時代の963年(光宗14年)11月29日晋州玉峰山下開郷(現在の晋州玉峰南洞)で生まれ、1012年(顕宗3年)5月に東女真が迎日・清河などに攻めてくる都部署の文演・李仁澤らと共に按察使として戈船(鋭い釘が生えた一種の鉄甲船)を撃退した。1018年には、高麗に侵攻した契丹のソベアプら10万人の軍に対して姜邯賛の副将として参戦、興化鎮で大破した。敗北したソベアプの軍事がすぐ開京に攻めてくる再びこれ追撃して慈州で大勝を収めた。これよく戦闘という。その年に1019年に鷹揚上将軍に就任、まもなく昇格し推誠致理翊戴一等功臣に録勲され、1020年に知中枢事兵部尚書となった。 1021年11月12日59歳で逝去、太子太師門下侍郎を贈職し殷烈の諡号を下された。また、李氏朝鮮時代姜世晃の子孫で漢城判尹(ソウル市長)を務めた姜潤(1830〜1898)と弟の姜健(1843〜1909)の兄弟が作った携帯用日時計を作った、これらの兄弟の伯父の姜イジュン(강이중)と父が来る渾天時計を製作したことでも有名である。
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