第1期から第4期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/03 14:51 UTC 版)
スコットランドのマリは1130年にスコットランド王デイヴィッド1世(1080年頃-1153年, 在位1124年-1153年)に征服されてスコットランド王国に併合されるまでモーマー(領主)(英語版)という統治者によって統治されてきた。スコットランド王位継承がタニストリーであった時代にシェイクスピアで有名なマクベス(1005年-1057年, 在位1040年-1057年)が王位に就いているが、彼は異説もあるものの、おそらくマリのモーマーフィンレック(英語版)(Findláech, 生没年不詳)とスコットランド王マルカム2世(954年-1034年, 在位1005年-1034年)の娘ドウナダ(Donada, 生没年不詳)の間の子であった。 1130年にマリがスコットランドに併合された後もマリはイングランド軍に占領されることが少ない地域だったため、スコットランドのイングランドへの抵抗運動において隠れ場所や兵員募集の拠点として重要な地域となった。イングランドから独立してスコットランド王に即位したロバート1世(1274年-1329年, 在位1306年-1329年)は、1312年に甥にあたると言われるトマス・ランドルフ(英語版)(生年不詳-1332年)に最初のマリ伯位を与えている。かつてのマリのモーマーの領土に加えて、マリの沿岸地域の王領も領土とされた。初代マリ伯はバノックバーンの戦いやオールド・バイランドの戦い(英語版)でロバート1世の指揮下でイングランド軍と戦った後、1329年から1332年にかけてロバート1世の跡を継いで即位したデイヴィッド2世(1324年-1371年, 在位1329-1371)の摂政を務めた。しかし息子の3代マリ伯ジョン・ランドルフ(英語版)(生年不詳-1346年)は、子供のないまま暗殺されたため、最初のマリ伯は廃絶した。 その後、マリにはダンバー氏族(英語版)やスチュワート氏族など外部の氏族集団(クラン)の進出が進み、1372年3月9日には初代マリ伯トマス・ランドルフの娘イザベル(Isabel Randolph, 生没年不詳)とサー・パトリック・ダンバー(生年不詳-1356年)の間の子ジョン・ダンバー(英語版)(生没年不詳-1391年)が第2期のマリ伯に叙せられている。このマリ伯は第1期のマリ伯領の沿岸部分を領土としており、高地部分についてはロバート2世(1316年-1390年)の子バカン伯爵アレグザンダー・ステュアート(英語版)(1343年-1405年)がバデノッホ卿(英語版)(Lord of Badenoch)として獲得する分割がなされた。しかしこの分割は同族内の対立やヘブリディーズ諸島のロード・オブ・アイルズ(英語版)による東方進出など戦乱を招いた。第2期マリ伯は初代マリ伯ジョン・ダンバーの孫にあたる4代マリ伯ジェームズ・ダンバー(生年不詳-1429年)まで継承された後、4代伯の娘エリザベス・ダンバー(生年不詳-1485年)が継承者となったため、その夫であるアーチボルド・ダグラス(英語版)(Archibald Douglas, Earl of Moray, 生年不詳-1455年)にマリ伯の称号が認められたが、彼は1455年に兄にあたる第9代ダグラス伯爵(英語版)ジェイムズ・ダグラス(英語版)(1426年–1488年)に従って国王に反旗を翻し、アーキンホームの戦い(英語版)で敗死したため、全称号をはく奪されることとなった。またエリザベスの姉妹の夫にあたる第2代クライトン卿(英語版)ジェイムズ・クライトン(生年不詳-1454年)にもマリ伯の称号が認められていた。アーキンホームの戦い後、マリ伯領は王冠に戻ったが、その下でハントリー伯爵ゴードン氏族(英語版)が支配力を伸ばしていった。 1501年6月12日にはジェームズ4世の私生児ジェイムズ・ステュアート(英語版)(1499年頃–1544年)が幼くしてアバーネシー=ストラサーン卿(Lord Abernethy and Strathearn)とともに3期目のマリ伯に叙せられ、莫大なマリ伯領を与えられたが、彼は継承者を残せなかったので彼の死後にマリ伯領は王冠に返還された。 ついで第4代ハントリー伯爵ジョージ・ゴードン(英語版)(1514年–1562年)が1549年2月13日に4期目のマリ伯に叙せられたが、メアリー女王と対立し、コリッチーの戦い(英語版)に敗れて捕らえられた後に死去し、死後の1563年5月28日に称号をはく奪された。
※この「第1期から第4期」の解説は、「マリ伯爵」の解説の一部です。
「第1期から第4期」を含む「マリ伯爵」の記事については、「マリ伯爵」の概要を参照ください。
- 第1期から第4期のページへのリンク