書評・他
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戦後大学院生の頃に洋書の輸入が解禁になり、篠田一士とともにイギリスの雑誌『ニュー・ステイツマン』『サンデイ・タイムス』『オブザーヴァー』などを購読するようになって、書評欄の面白さに気づき、イギリスの書評が文学になっていることの衝撃を受ける。それは内容の紹介、本の評価、書評には文章を読む楽しみがそなわっていなくてはならないこと、批評性(これが最も重要なことと丸谷は考えていた)である。そして1970年から『朝日新聞』、次いで1972年から『週刊朝日』の書評、1977年から『文藝春秋』の「鼎談書評」も担当していたが、1991年に『東京人』誌で新聞の書評を批判したのが『毎日新聞』編集局長の斎藤明の目に止まり、毎日新聞が書評欄の大刷新を行った際(1992年)には同社の委嘱によって顧問に就任。企画段階から深くかかわり、特色ある紙面づくりに大きく寄与した。同顧問は2010年に辞した。書評を文芸の一つとして見なすべく主張し、毎日書評賞を発足させた。書評の長さを四百字詰原稿用紙で3.5枚と5枚のふたつにする。リヴューアーの名前を大切にし、大きく出す。本の選択は編集会議など開かずに、リヴューアーがほんとうに扱いたい本を扱う。希望が重なったときは、先着順。全体に明るい雰囲気にするために、第1ページに和田誠のイラストを大きく使うなど。『週刊朝日』では井上ひさしとともに『パロディ百人一首』の選者も務めた。 1961-63年には『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』で福永武彦、中村真一郎の後を継いで探偵小説批評「マイ・スィン」を連載。英文学の伝統の延長線としてのミステリ作品批評を行い、またレイモンド・チャンドラー『プレイバック』での主人公フィリップ・マーロウの台詞「しっかりしていなかったら、生きていられない。優しくなれなかったら、生きている資格がない」を紹介し、これがのちに「強くなければ生きていけない」「タフでなければ生きていけない」などとして有名になって、映画『野性の証明』(1978年)の宣伝コピーにも使われた。 杉本秀太郎と京都円山公園のしだれ桜の花見に行った時のことを書いたエッセイ「桜と御廟」では、「宵桜」という言葉を生み出した。エッセイ「書店に必要なもの」で、書店ではロッカーを置いてはどうかと書いたところ、八重洲ブックセンターではこれを取り入れて「丸谷さんロッカー」を置くようになった。連載エッセイの挿絵や、エッセイ本のカバー挿絵などについて、その多数を和田誠が担当している。 芥川賞(1978年第79回から1985年第93回まで。1990年第103回から1997年第118回まで)、谷崎潤一郎賞(1978年第14回から2005年第41回まで)や読売文学賞(1981年度第33回から2004年度第56回まで)、野間文芸賞(1988年第41回から1993年第46回まで)、文学界新人賞(1970年下期第31回から1975年上期第40回まで)、中央公論新人賞(1975年再開第1回から1994年第20回まで)、群像新人文学賞(1978年第21回から1980年第23回まで)、講談社エッセイ賞(1991年第7回から1997年第13回まで)、毎日書評賞(丸谷の提案で創設。第1回から2010年第8回まで)、朝日新人文学賞(朝日新聞社。1989年から1993年まで)、文の甲子園(文藝春秋。1991年から1997年まで)などの選考委員を長年にわたり務めた。 村上春樹の才能を早くから見いだし、村上のデビュー作『風の歌を聴け』を群像新人文学賞において激賞。また、受賞はしなかったが芥川賞の選考においても村上を強く推した。丸谷は生前に村上のノーベル文学賞の受賞祝辞を用意しており、村上が弔問に行った時にこの幻の原稿を息子さんから見せられた。
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