暴君化とは? わかりやすく解説

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暴君化

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暴君化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 15:53 UTC 版)

ロバート・ムガベ」の記事における「暴君化」の解説

しかし2000年代に入ると白人対す不寛容政策転じた白人農場強制収用など自身政策の失敗から、それまで比較安定していたジンバブエ経済はたちまち崩壊し貧富の格差拡大したジンバブエ・ドルインフレーション招きインフレーション率165000%、失業率80%にも上がり犯罪増加やコレラ・エイズの蔓延なども重なり社会不安広がったインフレ率上がり続けており、2008年6月時点では220%のハイパーインフレーション記録した。さらに批判勢力強権的手法をもって封じる政策を行う事によって、ジンバブエ極めて混乱した態となっている。2002年には、事態重く見た英連邦が、ジンバブエを同連邦からの1年間資格停止処分決定その際に、ジンバブエ糾弾急先鋒だったのが、豪州ジョン・ハワード首相当時)である。翌2003年12月7日ジンバブエ英連邦正式に脱退する2005年8月には憲法改正させ、白人農場強制収用明記や、一時廃止していた上院定数93民選議席60任命議席33)を強引に復活させる同年11月選挙圧勝し支配体制強化した2008年3月29日行われた大統領議会選挙において、野党勢力敗北した見られているが、選挙終了後長期わたって選挙結果公表せず、それを批判した野党勢力支持者徹底した弾圧加えており、国内外から強い批判受けているが、引き続き政権固執する姿勢見せている。対立候補であるモーガン・ツァンギライ政権側から弾圧理由撤退決めたことから、同年6月27日行われる決選投票での不戦勝確定した2007年9月改正され憲法で、任期6年から5年短縮されている)。また、ムガベ自身一時退任模索していたものの、不満を持つ軍部治安機関押し立てられ政権固執しているとの説もある。同年9月15日、ツァンギライと連立政権作り合意文書署名し初め権力一部敵対勢力委ねた2008年6月一連の政治的混乱などを理由GCB剥奪された。ナイト称号剥奪されたのは、ルーマニア独裁者ニコラエ・チャウシェスク以来2人であった2009年1月26 - 27日南アフリカにおいて南部アフリカ開発共同体緊急首脳会議開催され、ツァンギライを首相に任命するよう勧告が行われた。ムガベはこの勧告受け入れ包括的政府成立した。また大統領選挙についても憲法改正後に行うことで与野党合意した2013年3月新憲法国民投票によって承認され2013年7月31日大統領選挙が行われた。ムガベはこの選挙61%の票を獲得し、ツァンギライを下し6度目勝利を収めた。ツァンギライは不正選挙があったとして選挙無効訴えたが、アフリカ連合AU)や南部アフリカ開発共同体SADC)は選挙結果支持している。 ムガベ2017年時点で世界最高齢国家元首だったため、2016年3月訪日したときには内閣総理大臣安倍晋三から「アフリカ長老」と呼ばれた2016年12月17日与党ZANUは2018年予定される大統領選挙候補者としてムガベ指名南西部都市マスビンゴにて開催された同党の年次党大会において承認された。当選すれば7期目であり、7期目も無事任期満了至れ実際に100歳近くまで在職することになるが、これはかつてムガベ飛ばしたという「100歳になるまで統治する」という冗談現実のものとなる事態であった2017年7月世界保健機関 (WHO)事務総長就任したテドロス・アダノムジンバブエ衛生状況高く評価しており、同年10月ムガベをWHO親善大使任命する意向示したところ抗議殺到したため、10月22日撤回追い込まれた。 ムガベ自身90歳を超えて後継者の指名や、自身退任に関して言及することを避けてきたが、後継をめぐる争いがグレース・マルフ夫人と、軍の支持を得るエマーソン・ムナンガグワとの間で勃発する2017年11月6日ムガベムナンガグワを第1副大統領から解任したことで国防軍反旗を翻し事実上クーデター企図ムガベ自宅軟禁下に置かれ、軍が国家権力掌握したが、2018年大統領選挙より前の辞任拒否していた。11月17日には大学卒業式参加し国防軍自宅軟禁下に置かれ以来初め公の場登場11月19日にZANU-PF党首解任され、党からも追放された。21日議会ではムガベグレース夫人権力奪取許したことを理由弾劾手続き開始同日ムガベ辞表提出し37年間に及ぶ長期政権に幕が下りた。 「2017年ジンバブエクーデター」も参照

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暴君化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 00:35 UTC 版)

毛沢東」の記事における「暴君化」の解説

建国当初新民主主義社会建設目標に、「穏健秩序ある」改革進めていた毛沢東は、1952年9月24日突如として社会主義への移行表明した1950年全国政治協商会議第2回会議社会主義への移行は「かなり遠い将来のこと」と発言していた毛が、急進的に社会主義導入しよう方針転換したことは、周恩来劉少奇など多く指導者困惑させた。しかし、毛は1953年1月よりソ連型社会主義計画経済モデルとした第一次五カ年計画開始させ、農業集団化などの社会主義化政策推進していった。第一次五カ年計画重化学工業への投資で高い経済成長達成し当時中国GDP同様に戦後復興進めていた日本より上回っていた。 毛沢東中華人民共和国新民主主義国から社会主義国変貌させるため、国家機構改造にも着手した1954年9月全国政治協商会議代わる最高権機関として全国人民代表大会設置され9月20日全人代第1回会議において中華人民共和国憲法正式に制定された。この憲法では、毛沢東提唱する社会主義への過渡期論が盛り込まれ国家目標として社会主義社会実現明記された。9月27日毛沢東憲法に基づいて新たに設置され国家主席就任した。なお、首相である国務院総理には周恩来改め就任し全人代常務委員長に劉少奇国家副主席には朱徳任命された。また、国務院副総理10名すべてが共産党員であり、全人代副委員長国務院閣僚クラスにおける非共産党員割合大幅に減少するなど、国家要職中国共産党独占した国家主席就任した毛沢東は、労働改造所設置して自己対す反対勢力粛清していく。1956年2月ソ連指導者であるフルシチョフが行ったスターリン批判衝撃受けた毛沢東は、中国共産党対する党外からの積極的批判歓迎するという「百花斉放百家争鳴」運動展開した。しかし、多く知識人から共産党独裁化を批判されると、毛はこれを弾圧するために1957年6月反右派闘争開始し少なくとも全国50万人以上を失脚させ投獄した反右派闘争によって共産党批判的な知識人層の排除成功した毛沢東は、急進的社会主義建設路線完成めざした。毛は「イギリス15年以内追い越す」ことを目標として、1958年大躍進政策発動大量増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くず大量に生産された。農村では「人民公社」が組織されたが、かえって農民生産意欲奪い無謀な生産目標に対して実際よりも水増しされ報告書中央に回るだけの結果になった。こういったことから大躍進政策失敗し続いて「3ケ年自然災害」が発生大躍進政策発動から数年間で2000万人から5000万人上の餓死者を出した中華人民共和国大飢饉)。 このことで「世界三大大量殺戮者」として、ドイツヒトラーソ連スターリンと共に揶揄されることとなった。この失敗以降毛沢東政策次第現実離れしていき、批判受け付けない独裁的な傾向強くなっていく。

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