日大の帝王
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:19 UTC 版)
日大のトップとして先ず行ったのが個々の学部の独立採算制の導入と附属校・準附属校の増設である。 既に旧制大学時代(日大は1920年代から既に大学令に基づく大学だった)に一時期は高等文官試験合格者数がトップになり多数の合格者を輩出していた司法の日大として規模的にも大規模なものになっていたが、戦時中に大阪府にあった専門学校と大阪中学校を分離し、さらに終戦直後に4つあった附属校のうち3つを別法人として独立(現在の特別附属校)するなど、規模を縮小していた上に、戦災とそれに伴う疎開で福島県から静岡県に至る各地に学部が分散し全体的な統制に欠いていた。このため教養部や各専門学部に大きな権限を与えつつ独立採算での運営を行わせ、更に日大本体のみならず各学部にもそれぞれ附属学校を持つことを認めた。一方で大学本体としては1952年(昭和27年)に日本相撲協会から両国国技館を買収して改装の上で日大講堂とし、1959年(昭和34年)10月6日に創立70周年記念式典を同地で挙行した。式典には昭和天皇と香淳皇后の臨席があり、岸信介首相を始め文部大臣、各大臣、日本大学の総長、日本大学の校友、日本大学の学生ら約5000人が参列した式典で厳粛のうちに盛大に執り行われた。 更に神武景気からの経済成長を見越す格好で学部の新増設にも着手、既に文学部と旧高等師範部を包括する格好で文理学部が新設され、1952年に東京獣医畜産大学を農学部に吸収して農獣医学部へと改組し、1957年には経済学部商業学科を商学部に分離した。特に戦後の教育改革を前提の産業界の要請を受けて学校制度の中に職業教育の課程の理工系教育が重視されたことから理工系学部の新増設にも熱心に取り組み、福島県に移転していた専門部工科を第二工学部→工学部とする一方で従前の工学部は理科系の学科を増設して理工学部に改組、さらに理工学部の経営工学科を母体に1965年(昭和40年)に第一工学部→生産工学部を設置し、同学部ではいち早くインターンシップを取り入れ産学連携の一環としても重要な意義があった。その他にも以下の学部・学科が古田時代に新増設されている。 日本大学法学部 - 経営法学科・管理行政学科 日本大学経済学部 - 産業経営学科 日本大学芸術学部 - 放送学科 日本大学短期大学部 - 放送学科・栄養学科・建築学科・機械学科 日本大学通信教育部 - 商学部商業学科 こと1960年(昭和35年)から3ヵ年計画を・大学進学者が増加する1963年(昭和38年)から5ヵ年計画を立て、教育や研究の整備教職員の資質向上のため教職員研修会を開催して優秀な教員の確保を行った。湯川秀樹を理工学部教授として招聘し、湯川の指導下でノーベル賞(ノーベル物理学賞)レベルを目指して国公立大学・私立大学を問わず、一番学会に権威のある教員を少なくても1学科1人を配置し、あらゆる分野で世界的な研究者を50人程度配置するのを目標とした。古田自身、戦後の国際社会科学技術の日進月歩する競争社会で大学の研究重要度は、原子力支配の世界において日本の大学は理系学部の教育研究が少ないとの問題意識を抱き、日大内部の理系の学部比率を上げ、国内の大学を相手にするのではなく世界の大学を相手にする世界的総合大学の確立を目標にした。現在の日本大学も、文系と理系の割合は米国などの海外にある大学に近いものがあり、日本の大学の中で学部と学科の多様さ予算規模は他大学に比べて優れている点が特徴的である。 更に戦後の第一次ベビーブーム(団塊の世代)による大学生人口の増加を見越して大学の入学定員を増やす一方で、地方の私立高校を日大統一テストの受験による選考で系列下に置く準附属校の制度を発足させ、ベビーブームが終わった後の学生の確保にも着手した。 1957年(昭和32年)に32億円であった日本大学の収入は、10年後の1968年(昭和43年)には10倍の300億円となっていた。
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