日大の移転および大久保公団線の開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 03:28 UTC 版)
「京成バス習志野出張所」の記事における「日大の移転および大久保公団線の開通」の解説
現在のように大久保線が莫大な本数になった時期は昭和30年代ということ以外は不明であり、船橋市および習志野市の統計書にも明確なデータがない。 昭和30年代の顕著なトピックとして、1957年に日本大学の一部が今の習志野市泉町に移転(津田沼校舎)したことが上げられる。当時は今ほど大規模ではなかったにせよ、これにより津田沼からの通学手段の増強を迫られたのは間違いなく、1957年頃が大久保線増発の時期と推定される。ちなみに、八千代台駅の開設は1956年であり、それから程なくして同駅までのバスも運行開始(実籾駅経由)された。新京成電鉄鎌ヶ谷営業所習志野車庫(後の新京成電鉄習志野営業所、一度車庫に再格下げの後、現・習志野新京成バス→船橋新京成バス習志野営業所)による三山線(大久保 - 田喜野井 - 船橋駅または津田沼駅)の開通は1958年である。 なお、当時の日大前(現・日大生産工学部および東邦大学付属東邦中学校高校)→大久保十字路に関しては現在の2車線の道路ではなく、その西側直近の旧道(現在は車両通行不可)を走っていた。(従って、習志野警察→日大前はクランク状に運行していたことになる。) 1959年4月13日には大久保公団線(津田沼駅 - 大久保十字路 - 大久保一丁目)が開通した。この路線は大久保十字路(大久保商店街との交差点)を過ぎると、さらに東の交差点(現在、習志野警察署と京成線路とを結ぶ市道)を南下し、大久保二丁目(現在廃止)および映劇前(習志野劇場、線路の南側に映画館があった)停留所を経由し、さらに京成大久保駅の踏切を渡り(京成大久保駅前にも停留所があった)京成大久保駅南口で合流後、今の大久保団地まで至る路線だった。この路線が走っていた頃は大久保十字路 - 映劇前間の道路も非常に狭かった。なお、当時の終点の停留所名は「大久保一丁目」である。当時は今の本大久保1 - 3丁目のほとんどすべて(一部を除く)が「大久保一丁目」であり、一番はずれの停留所になぜかこの名前がついた。昭和42年頃に住居表示変更され京成線の南側はすべて本大久保となったので、停留所名は大久保公団に変更。その後、屋敷線だけの停留所となったが、保健所→大久保団地と変更になっている。 その大久保公団線開通後のわずか1年後に屋敷線が開通し、津田沼駅のみならず京成津田沼駅への足さえ確保されたため、多くの乗客がこれを利用し、わずか10年余りで廃止された。なお、大久保公団線はすべて津田沼駅を始発とし、船橋駅発の便はなかった。 その後、1962年度については、「全国バス路線便覧 昭和39年度版(全国旅客自動車要覧編集室, 書名は39年度だが、データは昭和37年度)」によれば、船橋駅または津田沼駅を始発として、「大久保行き」「二宮神社行き」「県営住宅行き」「大久保四丁目行き」「八千代台駅行き」の4系統(長距離線、公団線を除く)が運行されていたことがわかる。二宮神社に関しては今とほとんど同じであると判断される。県営住宅行きは、市営住宅(当時は千葉荘前)を過ぎると三叉路を二宮神社側に進み、少し行ったところで右折して県営住宅停留所に向かっていた。 大久保四丁目行きは開通当時の状況は不明だが、少なくとも昭和40年代以降は国立病院を経由せずそのまま大久保十字路に向かい、さらに東に進んで軽便鉄道跡(マラソン道路)の交差点を北上し、終点に至った。なお、大久保四丁目終点停留所は今の停留所の場所ではなく、大久保四丁目の交差点のわずか南にあった。バスが一台だけ入れる折返場が軽便鉄道跡(現・マラソン道路)に設けられ、必ずそこに立ち寄っていた。 2012年11月16日、東船橋線として分割されていた船橋駅 - 東船橋駅 - 津田沼駅の系統が京成バスシステムに移管された。
※この「日大の移転および大久保公団線の開通」の解説は、「京成バス習志野出張所」の解説の一部です。
「日大の移転および大久保公団線の開通」を含む「京成バス習志野出張所」の記事については、「京成バス習志野出張所」の概要を参照ください。
- 日大の移転および大久保公団線の開通のページへのリンク