日大トップとしての功罪
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 05:19 UTC 版)
「古田重二良」の記事における「日大トップとしての功罪」の解説
古田には日本大学の歴史に対する功罪両面がある。 戦後教育の民主化と戦後復興から経済成長による国民生活向上で、大学は大衆化して高等教育の進学率が上昇した(勤勉であるインテリ層やエリート層が進学するエリート教育機関であった高校、大学は昭和30年代には高等学校の進学率が50%であり、大学進学率が10%で高校及び大学の進学率が低い中卒・高卒の学歴が主流の低学歴社会であった。昭和40年代には高校進学率が70%であり、大学進学率が20%であり、昭和50年代には高校進学率が90%であり、大学進学率が37%となっている)、それに対応する形で高度経済成長に適応した高等教育が必要となり、国(文部省)は教育政策でアメリカの科学技術・文化を取り入れた。これに影響されて、首都圏の大学では比較的一般人が目指せるものとして、エリート期からマス段階(大衆化)に移行しつつあった。特に日大では、欧米の大衆化した教育文化に影響され進学率上昇や少子化社会への移行を踏まえたマスプロ教育が導入された(※1970年代に既に少子化は始まっていた)。古田は、大学の進学率が低かった頃に、成熟した欧米諸国にある大規模校のように、日大を日本一のマンモス校へと成長させた。戦前・戦後期のエリート層しか進むことのできなかった高等教育機関ではなく比較的一般人が目指せるものとした。また前述した学部・学科の新増設なども産業界の教育に対する要請に応える要素が大きい。 その一方で日大闘争により問題のある設備と教育内容、体育会系の右翼学生が度々起こす暴力事件など、マスプロ教育の負の側面を露呈した。学部自体の独立採算制は学部あって日大無しと言われるほどの独立性を高める一方で、学部間の確執や対立を引き起こすマイナス面も招き、政財界ばかりか芸能・マスコミ・スポーツ界にわたる日大閥を巻き込む格好での大規模化により巨額の金が学内で動くようになり、それに伴う利権争いや派閥争いが激化することとなった。 ただ、アカデミズムより法人としての利益を優先する姿勢に対しては日大内部でも評価と批判が相半ばするところがあり、日本大学通信教育部では総合科目の「日本大学を学ぶその120年の歴史」で古田重二良が中興の祖として教えられている。
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