戦中・戦後の混乱・復興(1941-1949)
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「野口源三郎」の記事における「戦中・戦後の混乱・復興(1941-1949)」の解説
日中戦争の先行きが不透明となる中、1941年(昭和16年)に文理大陸上競技部が所属していた大塚学友会は解散し、新たに大塚学園報国会が発足した。その中に「鍛錬部」が設けられ、陸上競技部は陸上競技班となった。この時、野口は部長職を下り、日本陸連・体協の理事職も辞して陸上競技の指導者としての第一線から退いた。日本インカレを主催していた日本学生陸上競技連合は1942年(昭和17年)に大日本学徒体育振興会に吸収され、野口は会長の橋田邦彦から幹事に委嘱された。この頃はまだ若干の専門学科を教授する時間があり、全学の全生徒・教員を対象とした国防鍛錬や、体錬科教授要目の改正に向けた研究などの業務に追われ、終電で帰宅することも多かった。1943年(昭和18年)には大日本体育協会から改称した「大日本体育会」で陸上戦技部参与と国防鍛錬部長に就任し、野口も戦時体制に組み込まれたが、心から体制に共鳴することはできず、複雑な心境で陸上競技が「陸上戦技」へと変貌していく様を見届けた。同年後半からは生徒ともに蒲田の日本特殊鋼(現・大同特殊鋼)工場へ勤労奉仕に派遣され、1944年(昭和19年)春まで勤務した。同年3月からは北多摩郡府中町の陸軍燃料廠(現・航空自衛隊府中基地)に配置転換となった。転属先の下士官や将校は生徒の意向を全く汲まない非民主的な取り扱いをしたため、野口は自ら監督責任を負うことを申し出て認めさせた。1945年(昭和20年)5月23日の空襲で渋谷の自宅と東京高師を焼失し、資料や写真をすべて失ったが、家族は避難していて無事であった。以後は焼け残った西田泰介邸にしばらく身を寄せることになった。府中で終戦を迎え、8月26日まで貴重品運搬の作業を続けた。 1945年(昭和20年)9月、大塚学園復興委員会が発足し、総務部に所属した。同年12月、大日本体育会の参与と評議員に就任、1946年(昭和21年)10月には東京文理大高師復興委員会の委員長となり、学校の立て直しに乗り出し、各種渉外などをこなして東京教育大学の設立に結び付けた。この際、野口は東京教育大学に日本初の体育学部の設立を目指し、学部新設を勝ち取ったが、東京高師体育科だけでは規模が小さかったため、東京体育専門学校と統合して学部設置を実現した。また学長選挙では文部省と太いパイプを持つ柴沼直を推して当選させ、速やかな大学の復興の契機を作った。1947年(昭和22年)3月には日本陸上競技連盟顧問となる。1948年ロンドンオリンピックに日本が参加することは認められず、戦中・戦後の陸上競技の停滞により、日本の陸上競技は10 - 20年前の水準に戻ってしまったと野口は感じた。この頃、野口は故郷・深谷の親戚の家に身を寄せており、毎日満員電車に揺られて数時間かけて通勤していた。 東京高師の復興を進める裏で、野口は学校体育の復興にも尽力し、「学校体育指導要綱」・「学習指導要領体育編」の策定に委員として参画したほか、1948年(昭和23年)の最後の文検で体育の主査を務め約800人の最終合格者を出し、教育現場に送り出した。私生活では1948年(昭和23年)8月に渋谷区神泉町の旧居跡に自宅を再建した。
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