懐帝殺害とは? わかりやすく解説

懐帝殺害

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 04:41 UTC 版)

劉聡」の記事における「懐帝殺害」の解説

劉聡懐帝儀同三司会稽郡公に封じ懐帝側近である庾珉らにも官職与えたまた、懐帝招き「卿が豫章王であったとき、朕は卿に接見した。王武子(王済(中国語版))が朕を紹介すると、卿は以前からその名を聞いていたと言ったな。卿は楽府の歌を朕に示し、『君は辞賦が得意と聞く試しにこの作品見てみるように』と言い、朕は王武子とともに盛徳頌』という詩を作り、卿はこれを称賛したまた、皇堂での射術誘われたこともあったな。朕が十二本、卿と王武子は九本を命中させた。卿は朕に弓を贈ったが卿は覚えておるかね」と話した懐帝は「臣が忘れるはずなどありません。ただ一つ残念なのは、もっと早くその龍顔皇帝の顔)を知ることができなかったということです」と答えた劉聡は「卿の一族骨肉の争い繰り返したが、どうしてこうなったと思う」と問うた。懐帝は「これは人事によらず天意よるものです。大漢天意応じたのであり、そのために臣の一族互い駆除したのです。もし臣の一族武帝大業継いで九族協力し合ったならば、陛下今日はなかったでしょう」と返した夕方になると懐帝退出した劉聡は、年小の劉貴人を懐帝下賜して「彼女は名公の孫であり、特別に卿の妻とするので大切にするように」と述べ劉氏会稽夫人とした。 4月賈疋・麹特らが長安数カ月渡って包囲すると、劉曜幾度も破れ士女8余り引き連れて平陽戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴長安入った。 鎮北将軍靳沖を派遣して太原攻撃させ、平北将軍卜珝をその後詰とした。靳沖は太原攻略失敗し、その責任全て卜珝に擦り付け、彼を処刑した劉聡はこれを聞くと大怒し「卜珝は朕でさえ刑を加えることができない貴人である。靳沖は一体何様のつもりか」と言い御史中丞浩衍に節を与えて派遣し、靳沖を処刑した劉曜に晋の司徒傅祗が守る三渚を攻撃させ、右将軍劉参に郭黙が守る懐城を攻撃させた。傅祗が病死すると城は陥落し劉曜は二万戸余り平陽移住させた。劉聡は傅祗に太保追贈し、傅祗の孫である傅純・傅粋を給事中任じ、傅祗の子である傅暢へ「尊公(傅祗)は天命全うできなかったが、主君に忠を尽くしたから、朕はこれを顕彰する。晋主は既に降伏しており、天命支えはない。にもかかわらず尊公は漢の南方荒らし国境動揺させた。これはまさしく罪であるが、朕はその元悪官位追贈勲功与え逆臣の孫を登用した。卿もこれで漢の徳を知ることができたのではないかと言った傅暢は「陛下が先臣を称賛される度に、その忠節明らかにされたことの大恩感じますと言った6月劉聡は貴嬪の劉英皇后立てようとした。だが、張皇太后貴人張徽光皇后立てるよう望んだため、やむなく従った。 子の河間劉易車騎将軍に、彭城劉翼衛将軍任じ近衛兵統率させた。また、高平劉悝を征南将軍任じて離石を守らせ、済南劉驥征西将軍任じて平陽西に西平城を築いて守らせ、魏王劉操を征東将軍任じて蒲子鎮守させた。 劉琨降った趙固王桑は再び漢に帰順しようと思い劉聡救援依頼した劉聡鎮遠将軍伏疵を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑長史臨深と将軍牟穆が兵1万率いて晋の魏郡太守劉演投降した趙固伏疵と合流して西に向かったが、王桑は漢に帰るのを止め、兵を率いて東の青州逃走した趙固は兵を派遣して王桑追撃し曲梁殺した王桑残兵張鳳率いられ劉演投降した劉聡趙固荊州刺史・領河南郡太守任じ洛陽を守らせた。 8月劉易劉粲劉曜らを派遣し晋陽劉琨攻撃させた。劉琨張喬防戦させたが返り討ち遭い太原郡太守高喬らは晋陽ごと劉粲降伏した劉琨常山撤退し義兄弟代王拓跋猗盧救援要請した劉粲劉曜は晋の尚書盧志侍中許遐・太子右衛率崔瑋を捕えて平陽送った劉聡劉曜車騎大将軍戻し前将軍劉豊并州刺史任じて晋陽守備命じた9月盧志太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に、高喬と令狐泥を武衛将軍任じた衛尉長安投降した10月、劉烜を代王に、劉逞を呉王に、劉朗を潁川王に、劉皋を零陵王に、劉旭を丹陽王に、劉京を蜀王に、劉坦九江王に、劉晃を臨川王に封じたまた、王育太保に、王彰太尉に、任顗を大司徒に、馬景を大司空に、紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏右僕射任じた同月拓跋猗盧拓跋六脩拓跋普根らを前鋒として派遣し拓跋猗盧20統べ後継となり、猛に至った劉粲恐れて逃走し劉曜は汾東で大敗喫した。討将軍傅虎は劉曜身代わりとなり、劉曜はかろうじて撤退できた。11月拓跋猗盧追撃し谷で劉粲破った。征将軍の邢延を始め、劉儒・劉豊・簡令・張平討死し、鎮北将軍劉豊捕縛された。劉粲参軍盧諶劉琨投降すると、劉聡盧諶の父である盧志と弟の盧謐・盧詵を処刑し戦死した傅虎に幽州刺史官位追贈した。 12月、張氏を皇后立て、父の張寔を左光禄大夫任じた。 彭天護が少数民族率いて賈疋攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し賈疋追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し功績により劉聡涼州刺史任じた313年1月関中司馬鄴政権が活発となると劉聡次第懐帝を疎ましく思うようになった劉聡は光前殿において懐帝命じ人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・王儁らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期王儁らが平陽劉琨呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡懐帝毒殺し王儁始め晋の旧臣10余り誅殺した。また懐帝賜った劉夫人を自らの貴人戻し境内死罪以下に大赦施行した劉聡の母の張氏が死に、光献という諡号贈った。姪の張皇后暫くして亡くなり、武孝と諡された。

※この「懐帝殺害」の解説は、「劉聡」の解説の一部です。
「懐帝殺害」を含む「劉聡」の記事については、「劉聡」の概要を参照ください。

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