懐帝殺害
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劉聡は懐帝を儀同三司・会稽郡公に封じ、懐帝の側近である庾珉らにも官職を与えた。また、懐帝を招き「卿が豫章王であったとき、朕は卿に接見した。王武子(王済(中国語版))が朕を紹介すると、卿は以前からその名を聞いていたと言ったな。卿は楽府の歌を朕に示し、『君は辞賦が得意と聞く。試しにこの作品を見てみるように』と言い、朕は王武子とともに『盛徳頌』という詩を作り、卿はこれを称賛した。また、皇堂での射術に誘われたこともあったな。朕が十二本、卿と王武子は九本を命中させた。卿は朕に弓を贈ったが卿は覚えておるかね」と話した。懐帝は「臣が忘れるはずなどありません。ただ一つ残念なのは、もっと早くその龍顔(皇帝の顔)を知ることができなかったということです」と答えた。劉聡は「卿の一族は骨肉の争いを繰り返したが、どうしてこうなったと思う」と問うた。懐帝は「これは人事によらず天意によるものです。大漢は天意に応じたのであり、そのために臣の一族は互いを駆除したのです。もし臣の一族が武帝の大業を継いで九族が協力し合ったならば、陛下の今日はなかったでしょう」と返した。夕方になると懐帝は退出した。劉聡は、年小の劉貴人を懐帝へ下賜して「彼女は名公の孫であり、特別に卿の妻とするので大切にするように」と述べ、劉氏を会稽国夫人とした。 4月、賈疋・麹特らが長安を数カ月に渡って包囲すると、劉曜は幾度も破れ、士女8万家余りを引き連れて平陽に戻った。漢軍が撤退すると、司馬鄴は長安に入った。 鎮北将軍靳沖を派遣して太原を攻撃させ、平北将軍卜珝をその後詰とした。靳沖は太原攻略に失敗し、その責任を全て卜珝に擦り付け、彼を処刑した。劉聡はこれを聞くと大怒し「卜珝は朕でさえ刑を加えることができない貴人である。靳沖は一体何様のつもりか」と言い、御史中丞浩衍に節を与えて派遣し、靳沖を処刑した。 劉曜に晋の司徒傅祗が守る三渚を攻撃させ、右将軍劉参に郭黙が守る懐城を攻撃させた。傅祗が病死すると城は陥落し、劉曜は二万戸余りを平陽に移住させた。劉聡は傅祗に太保を追贈し、傅祗の孫である傅純・傅粋を給事中に任じ、傅祗の子である傅暢へ「尊公(傅祗)は天命を全うできなかったが、主君に忠を尽くしたから、朕はこれを顕彰する。晋主は既に降伏しており、天命の支えはない。にもかかわらず、尊公は漢の南方を荒らし、国境を動揺させた。これはまさしく罪であるが、朕はその元悪に官位を追贈し勲功を与え、逆臣の孫を登用した。卿もこれで漢の徳を知ることができたのではないか」と言った。傅暢は「陛下が先臣を称賛される度に、その忠節を明らかにされたことの大恩を感じます」と言った。 6月、劉聡は貴嬪の劉英を皇后に立てようとした。だが、張皇太后が貴人の張徽光を皇后に立てるよう望んだため、やむなく従った。 子の河間王劉易を車騎将軍に、彭城王劉翼を衛将軍に任じ、近衛兵を統率させた。また、高平王劉悝を征南将軍に任じて離石を守らせ、済南王劉驥を征西将軍に任じて平陽西に西平城を築いて守らせ、魏王劉操を征東将軍に任じて蒲子を鎮守させた。 劉琨に降った趙固と王桑は再び漢に帰順しようと思い、劉聡に救援を依頼した。劉聡は鎮遠将軍梁伏疵を派遣したが、漢軍が到着する前に王桑の長史臨深と将軍牟穆が兵1万を率いて晋の魏郡太守劉演に投降した。趙固は梁伏疵と合流して西に向かったが、王桑は漢に帰るのを止め、兵を率いて東の青州に逃走した。趙固は兵を派遣して王桑を追撃し、曲梁で殺した。王桑の残兵は張鳳に率いられて劉演に投降した。劉聡は趙固を荊州刺史・領河南郡太守に任じ、洛陽を守らせた。 8月、劉易・劉粲・劉曜らを派遣し、晋陽の劉琨を攻撃させた。劉琨は張喬に防戦させたが返り討ちに遭い、太原郡太守高喬らは晋陽ごと劉粲に降伏した。劉琨は常山へ撤退し、義兄弟の代王拓跋猗盧へ救援を要請した。 劉粲と劉曜は晋の尚書盧志・侍中許遐・太子右衛率崔瑋を捕えて平陽に送った。劉聡は劉曜を車騎大将軍に戻し、前将軍劉豊を并州刺史に任じて晋陽の守備を命じた。 9月、盧志を太弟太師に、崔瑋を太傅に、許遐を太保に、高喬と令狐泥を武衛将軍に任じた。衛尉の梁芬が長安に投降した。 10月、劉烜を代王に、劉逞を呉王に、劉朗を潁川王に、劉皋を零陵王に、劉旭を丹陽王に、劉京を蜀王に、劉坦を九江王に、劉晃を臨川王に封じた。また、王育を太保に、王彰を太尉に、任顗を大司徒に、馬景を大司空に、朱紀を尚書令に、范隆を左僕射に、呼延晏を右僕射に任じた。 同月、拓跋猗盧は拓跋六脩・拓跋普根らを前鋒として派遣し、拓跋猗盧は20万を統べ後継となり、狼猛に至った。劉粲は恐れて逃走し、劉曜は汾東で大敗を喫した。討虜将軍傅虎は劉曜の身代わりとなり、劉曜はかろうじて撤退できた。11月、拓跋猗盧は追撃し、藍谷で劉粲を破った。征虜将軍の邢延を始め、劉儒・劉豊・簡令・張平が討死し、鎮北将軍の劉豊が捕縛された。劉粲の参軍盧諶が劉琨に投降すると、劉聡は盧諶の父である盧志と弟の盧謐・盧詵を処刑し、戦死した傅虎に幽州刺史の官位を追贈した。 12月、張氏を皇后に立て、父の張寔を左光禄大夫に任じた。 彭天護が少数民族を率いて賈疋を攻撃した。彭天護はわざと途中で撤退し、賈疋は追撃するも夜の山路で谷に落ちた。彭天護は賈疋を捕えて殺害し、功績により劉聡は涼州刺史に任じた。 313年1月、関中の司馬鄴政権が活発となると、劉聡は次第に懐帝を疎ましく思うようになった。劉聡は光極前殿において懐帝に命じ、人々に酒を注がせた。光禄大夫の庾珉・王儁らは立ち上がって慟哭したために、劉聡はこれを不快に思った。この時期、王儁らが平陽で劉琨に呼応しようと謀っていると密告する者がおり、劉聡は懐帝を毒殺し、王儁を始め晋の旧臣10人余りを誅殺した。また懐帝に賜った劉夫人を自らの貴人に戻し、境内の死罪以下に大赦を施行した。 劉聡の母の張氏が死に、光献という諡号を贈った。姪の張皇后も暫くして亡くなり、武孝と諡された。
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