徴募・養成・社会的地位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 08:06 UTC 版)
剣闘士となる者の大半は戦争捕虜や奴隷市場で買い集められた者たちで、反抗的なために主人に売り飛ばされた奴隷が多かった。何らかの理由により自由民が志願するケースもあり、研究者の試算によると剣闘士10人中2人が自由民であった。また、犯罪者も剣闘士として闘技場に送られた。剣闘士は勝ち続ければ富と名声を得ることもできたが、一方でローマ人たちからは「堕落した者」「野蛮人」「恥ずべき者」(インファーミス)と見なされており、その社会的地位は低く売春婦と同類と見なされ、奴隷の中でも最下等の者たちとされ蔑まれた。 徴募された奴隷や自由民たちは興行師(ラニスタ)が所有する剣闘士団(ファミリア・グラディアートリア)に所属し、その剣闘士養成所(ルドゥス)で長期にわたって訓練を施されてから闘技会に出場した。興行師は勝ち残り自由を得た元剣闘士で、財を成すこともできたが、売春宿の主人と同様の卑業と見なされ社会的地位は低かった。 剣闘士養成所では闘技を指導する元剣闘士の訓練士(ドクトレ)や教練士(マギステル)、高度な技術を持つ医師そしてマッサージ師(ウーンクトル)などが働き、剣闘士の養成を行った。訓練士によって、剣闘士たちは行進の仕方から武器の扱い、足技、突き刺した剣でどうやって動脈を見付けるかなどを指導され、徹底的にしごかれることになる。木製の剣を手に練習し、藁人形を相手に殴りかかる練習や訓練生同士の練習試合で経験を積む。訓練中の剣闘士は闘技会以外での怪我と反乱を防止するため木製の武器を用いており、本物の武器は与えられなかった。 訓練に耐えられずに自殺する者もおり、訓練についてこられない者たちには過酷な罰が与えられた。帝政初期の政治家で詩人のセネカは苦痛に耐えきれず自殺した者の事例について言及しており、あるゲルマン人の闘獣士は便所の汚物洗浄用の海綿の棒を喉に突っ込んで命を絶ち、またある闘獣士は馬車で移送中に居眠りをしたふりをして車輪に頭を突っ込んだという。ローマ人の見世物として仲間同士で戦わされることを嫌い、互いに喉を絞めあって絶命した蛮族の一団、そして模擬海戦の最中にこの見世物の愚かさを罵って自殺した蛮族の戦士の話も伝わる。 訓練生の宿舎は厳重に監視され、夜は鍵を掛けるなどして閉じ込められたが、食事については滋養になるものを与え、古代ローマでは大麦を食べると脂肪を増やして出血を防ぐと考えられており、これを主食とさせるなど配慮していた。ただし当時のローマ市民の主食は小麦であり、大麦は主に家畜の飼料用であり、剣闘士は侮蔑的に「大麦食い」(ホルデアリウス)と呼ばれた。 基礎的な訓練を終えた新人剣闘士は、俊敏さ、強さ、体格、熟練度に応じてトラキア闘士、サムニウム闘士、網闘士、魚兜闘士、追撃闘士といった様々なスタイルの剣闘士に分けられた(#種類の節を参照)。また、訓練についていけない落伍者は闘獣士になった。剣闘士は自身が所属する剣闘士養成所の興行師の手配で各地の闘技場へ巡業に出た。剣闘士は消耗品ではなく、巡業で金を稼ぐための重要な資産でもあるため、興行師は剣闘士を頻繁に闘技会に出すようなことはしなかった。戦いは公正に、そして観客が楽しめるようにマッチングされた。 剣闘士が埋葬された墓地を発掘し、少なくとも68体の骨の分析を行った結果、骨ミネラル値が異常に高く、強い筋肉と骨が作られたことが分かった。同時に食事の内容を分析した結果、多くの剣闘士が菜食主義の食事を摂っていたことが分かった。 かつては試合が始まれば剣闘士たちはどちらか一方が死ぬまで闘わされたと考えられていたが、実際には必ずしも死ぬまで闘わされたわけではなく、負けた剣闘士であっても観客を十分に満足させる試合をしたと見なされれば助命されることも多かった。そして無事生き残り、引退した剣闘士の中には、興行師や訓練士として剣闘士を鍛える側にまわる者もいた。生き残り、引退した者にはその証として木剣(ルディス)があたえられる。この一方で、犯罪者の剣闘士は訓練を受けることもなく獄中から闘技会に引き出され、防具なしで戦い、その大半は闘技場で命を落とした。 剣闘士には「訓練士」(または「剣術指南役」)、「ルディアリウス」、「パロス」、「ウェテラヌス」そして試合未経験の「訓練生」の順に称号があり、このうち同一武装集団の序列であるパロスは「筆頭剣闘士」(プリームス・パールス)、「次席剣闘士」と続き、第三から第八剣闘士までの存在が確認されている。奴隷の訓練生には劣悪な住居が与えられたが、自由民や勝ち続けた剣闘士の居住環境はましであり、最高位の筆頭剣闘士(プリームス・パールス)にまで上りつめた者は最高の住環境を要求することができた。また、その生活は必ずしも外界から遮断されていたわけでもなく、恋人を持ったり家庭を営む剣闘士もいた。 セネカは「最も価値のある剣闘士は美形の者である」とし、剣闘士の碑文からは「凡庸なる群れ、未熟者、上級者、最上級者、端麗者」の順に等級があったことを窺わせる。剣闘士は競技場で観衆の喝采を浴びる対象ではあり、多額の報酬を受けたが、解放されても他の解放奴隷とは異なりローマ市民やラテン人にはなれず、自由民の中でも最低の「降伏外人類」身分しか与えられなかった。 戦闘のプロであるという性質上、 前100年頃には、新兵訓練には剣闘士養成所の教官が役に立つという考えから、軍の指揮官たちに雇われて戦闘技術を歩兵に教授する教官も現れている。剣闘士は本来は兵士ではなかったが、69年のオト帝とウィテッリウスとの内戦(四皇帝の年)の際にオト帝は剣闘士2000人からなる部隊を編成させており、歴史家タキトゥスはこれを「恥ずべき補助兵」と形容している。 共和政期には下層階級の者が剣闘士試合に出ることがあったが、帝政期に入ると騎士階級や元老院階級の者までもが出場した事例もあり、極端な例としてコンモドゥスは皇帝でありながら自ら剣闘士として闘技会に出ている。
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