徳島藩主蜂須賀家墓所とは? わかりやすく解説

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徳島藩主蜂須賀家墓所

名称: 徳島藩主蜂須賀家墓所
ふりがな とくしまはんしゅはちすかけぼしょ
種別 史跡
種別2:
都道府県 徳島県
市区町村 徳島市下助任町佐古山町
管理団体 徳島市
指定年月日 2002.09.20(平成14.09.20)
指定基準 史7
特別指定年月日
追加指定年月日
解説文: 蜂須賀家阿波国淡路国25万石余を領した外様国持大名であり,大名家墓所徳島城跡北方約0.9km吉野川河口部近く位置する興源寺と,徳島城跡南西約2.4km眉山丘陵万年山の2箇所営まれた。
 興源寺墓所は,蜂須賀家菩提寺である臨済宗妙心寺派興源寺西方位置し周囲築地塀囲み北側に濠をめぐらした12000m2ほどの敷地で,藩祖家政から初代至鎮・2代3代4代5代6代・9代の各藩主の遺体埋葬されている。7代宗英は京都清浄華院葬られ興源寺墓所には遺髪が埋納されている。万年山墓所造営以降8代10代11代・12代・13代の墳墓遺髪納めた墓である。藩主以外にも,5代世子吉武8代養子重矩,12代の後室孝,13代の長女賀代が埋葬されている。このほかに藩祖家政の娘で池田家嫁いだ供養塔がある。また,家政殉死した渋谷丹波氏紀,至鎮に殉死した民沢作右衛門の墓が,それぞれ主人の墓に寄り添って営まれている。家祖正勝夫妻拝み墓は,蜂須賀家墓所区域からやや離れて営まれている。歴代藩主家族墓石は,いずれも大型花崗岩製で,五輪塔無縫塔櫛形塔の3形式があり,なかでも寺名の元となった2代藩主興源院忠英の墓石は,高さ4.24mの巨大な無縫塔である。
儒教傾倒した10代藩主重喜は,明和3年(1766)11月に,万年山儒葬による一族埋葬墓を,興源寺墓所遺髪納める墓を営む墓制採用した万年山墓所は,眼下吉野川徳島城下・徳島城跡を望む標高271mの稜線から山裾部に至る,東側を清谷,西側巴蛇谷で区画し東西約320m,南北約780m,約160,000m2ほどの墓域で,中腹には結晶片岩露出岩盤表面平らに荒削りして碑文刻んだ,高さ約3m,幅約8m明和3年11月在銘の「阿淡二州太守族葬墓域」の石碑がある。幅約70cm,高さ約1mの阿波青石緑色片岩)を平積みした結界石塁が,清谷に約33m,巴蛇谷に約25m残り山裾部に近い北側部分には,約30cm角で高さ約1mの花崗岩製の「御墓山」と刻字された結界石が14確認されている。最初埋葬者安永9年(1780)に没した8代藩主の宗鎮で,台地土壇後方の埋穴に埋葬し土饅頭覆って墳墓とし,その前面石製櫛形塔を据え土壇四方擬宝珠付の勾欄めぐらして正面には唐門配している。10代藩主重喜以降は,正室側室夭折した子供達墳墓藩主同一区画内に追加しており,被葬者神仏折衷方式埋葬され最後藩主14代茂韶夫妻その子息正韶夫妻合わせて56名を数える。また,昭和46年大阪より移転改葬され家祖正勝の墓がある。
徳島藩主蜂須賀家墓所は,仏葬から儒葬への転換埋葬墓と遺髪納める仏式の墓の併用など特異な形態示し森厳な周囲自然環境併せて遺構遺存状態も良好である。よって史跡指定して保護図ろうとするものである
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徳島藩主蜂須賀家墓所

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/21 14:00 UTC 版)

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興源寺墓所
阿淡二州太守族葬墓域の碑(万年山墓所)

徳島藩主蜂須賀家墓所(とくしまはんしゅはちすかけぼしょ)は、徳島県徳島市にある徳島藩蜂須賀氏とその一族および重臣墓所である。2002年(平成14年)9月20日、国の史跡に指定された。とくしま市民遺産選定。

概要

指定された墓所は、下助任町助任緑地にある興源寺墓所北緯34度4分58.2秒 東経134度33分19.6秒 / 北緯34.082833度 東経134.555444度 / 34.082833; 134.555444 (徳島藩主蜂須賀家墓所(興源寺墓所)))と、佐古山町諏訪山にある万年山墓所( 北緯34度4分17.4秒 東経134度31分49.1秒 / 北緯34.071500度 東経134.530306度 / 34.071500; 134.530306 (徳島藩主蜂須賀家墓所(万年山墓所)))の2箇所である。

興源寺墓所

家祖である正勝から13代藩主斉裕までの墓がある。元来、蜂須賀家菩提寺としては徳島城内に藩祖家政の異父兄で臨済宗の僧となっていた東嶽が開山した江岸山福聚寺(こうがんざん ふくじゅじ)があった。1586年(天正14年)家政は下助任町に菩提寺を移し、2代忠英1636年(寛永13年)に大雄山興源寺と改めた。寺院と藩主家の墓域とを築地塀で隔てて墓所が造営され、以後、13代斉裕までの墓が築かれた。家祖正勝の墓のみは塀の外にある。

8代宗鎮および10代重喜以降は、佐古山町の万年山墓所に埋葬され、興源寺墓所には遺髪のみの拝み墓が築かれた。

現在、興源寺自体は縮小し昔日の面影はないが、墓所は1985年(昭和60年)より徳島市によって整備され墓地公園(助任緑地)となっている。

万年山墓所

1766年(明和3年)10代藩主重喜によって、眉山北側の万年山に儒教式の墓所が造営された。8代宗鎮の墓を興源寺墓所より改葬し、10代重喜以後、最後の藩主となる14代茂韶までの6人の藩主の墓と、妻子・親族ら67人の墓がある。8代および10代から13代までは儒式墓と興源寺の仏式拝み墓の両墓制となっており、全国的に極めて特異な形式となっている。

墓域は眉山山頂から山麓の南佐古四番町に至り、東は清林谷、西は巴蛇谷(はじゃだに)となっている。眉山6合目には自然石を用い「阿淡二州太守族葬墓域」と題した明和3年11月付けのがあり、一般に「墓域の碑」と呼ばれる。

1971年(昭和46年)大阪府大阪市天王寺区六万体町の国恩寺にあった家祖・正勝の墓を頂上付近に改葬した。

太平洋戦争前までは旧家臣団により維持管理され整備されていた。しかし、戦後になると管理するものも少なくなり、藩主の墓は比較的保存状態が良かったが、その他は荒廃している。特に一族の墓は1946年(昭和21年)の昭和南海地震で倒壊したそのままの状態になっている。徳島県は国の史跡に指定されたのを期に予算計上を行い、公有化・整備に向けて動いている。藩主の墓を中心に墓碑周囲の玉垣を修復し平唐門の復元作業などが行われている。

墓石の倒壊と盗難

2001年に蜂須賀正勝の墓石の一部が倒され、妻の松の墓石の一部が盗難に遭っており、その後に修理・復元された[1]

2024年2月15日には蜂須賀正勝の墓石が倒れているのが発見され、文化財保護法違反の疑いで捜査が行われている[1]

参考文献

  • 『蜂須賀家万年山墓所』 現地配布パンフレット

外部リンク

  1. ^ a b 武将・蜂須賀正勝の墓石が倒れる 何者かが故意に倒した可能性も視野 国の史跡の蜂須賀家墓所」『』MBSテレビ2024年2月21日閲覧。



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