徳島藩松帆台場跡
名称: | 徳島藩松帆台場跡 |
ふりがな: | とくしまはんまつほだいばあと |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 兵庫県 |
市区町村: | 淡路市 |
管理団体: | |
指定年月日: | 2006.07.28(平成18.07.28) |
指定基準: | 史2 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 松帆台場跡は、幕末、大阪湾防衛計画の一環として、瀬戸内海上交通の要衝である明石海峡の防備を目的として、徳島藩によって淡路島最北端に築造された砲台である。安政5年(1858)着工、文久元年(1861)までの4箇年に亘り工事が進められた。台場は、海側に三角形の突出部が2基並んだM字型を呈し、東側に目隠し土塁が延び、堡塁内部には火薬庫、弾薬庫、調練場等の施設が設けられた。台場の南側には、台場からの砲撃力が及ばない海上の敵を迎撃するため、御備船(バッテラー)という小型高速船を係留する港湾施設である松帆湊が築造された。湊は安政6年に着工、文久2年には湊内の掘削と係留岸壁の工事が完了するなどほぼ完成をみた。発掘調査によれば、湊は風化花崗岩の岩盤を掘削して岸壁を造り出し、北東辺が約43m、南東辺が約41.5 mの平行四辺形に近い平面形を呈し、深さは約4mであったことが判明した。幕末開国期の欧米列強の軍事的緊張のなか明石海峡防備のため造営された松帆台場跡は、当時の我が国の政治・外交を知る上で欠くことのできない重要な遺跡である。 |
史跡: | 徳之島カムィヤキ陶器窯跡 徳島城跡 徳島藩主蜂須賀家墓所 徳島藩松帆台場跡 徳連場古墳 心合寺山古墳 忍路環状列石 |
徳島藩松帆台場跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 13:49 UTC 版)
徳島藩松帆台場跡(とくしまはんまつほだいばあと)は、兵庫県淡路市岩屋の松帆崎にある砲台跡。松帆砲台跡とも。国の史跡に指定されている[1]。
概要
幕末の安政5年(1858年)、徳川幕府将軍家茂の幕命を受けた徳島藩により着工、文久元年(1861年)竣工。
建設の目的は、明石海峡対岸の明石藩舞子台場跡(国の史跡)と対になって両岸から黒船を挟撃することであったが、一度も使用されることはなく現在に至っている。台場はM字状になった堡塁を石垣で補強、大砲13門が設置されていた。砲台は真北にむいている。
現在は神戸製鋼の保養所「ゆうなぎ荘」敷地になっている。
誤射
黒船には一度も使用されなかったが、文久3年(1863年)7月に幕府の3本マストの軍艦朝陽丸を誤って砲撃[2]し、舵付近を破壊している。この誤射で砲台司令の長坂三知は切腹している[3]。
交通アクセス
- 神戸淡路鳴門自動車道淡路ICから国道28号及び兵庫県道31号福良江井岩屋線道の駅あわじ付近
- 岩屋港から淡路交通バス松帆の浦バス停下車
脚注
- ^ “文化遺産オンライン「徳島藩松帆台場跡」”. 文化庁. 2015年6月21日閲覧。
- ^ “ひょうご歴史ステーション「兵庫伝説紀行」”. 兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム. 2015年6月21日閲覧。
- ^ “コトバンク「長坂三知」”. 朝日新聞. 2015年6月21日閲覧。
外部リンク
- 文化遺産オンライン
- 史跡徳島藩松帆台場跡〜遺跡に秘められた幕末のドラマ〜
- “ひょうご歴史ステーション”. 兵庫県立歴史博物館ネットミュージアム. 2015年6月21日閲覧。
座標: 北緯34度36分29.8秒 東経135度0分10.6秒 / 北緯34.608278度 東経135.002944度
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