万年山墓所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/08 17:34 UTC 版)
「徳島藩主蜂須賀家墓所」の記事における「万年山墓所」の解説
1766年(明和3年)10代藩主重喜によって、眉山北側の万年山に儒教式の墓所が造営された。8代宗鎮の墓を興源寺墓所より改葬し、10代重喜以後、最後の藩主となる14代茂韶までの6人の藩主の墓と、妻子・親族ら67人の墓がある。8代および10代から13代までは儒式墓と興源寺の仏式拝み墓の両墓制となっており、全国的に極めて特異な形式となっている。 墓域は眉山山頂から山麓の南佐古四番町に至り、東は清林谷、西は巴蛇谷(はじゃだに)となっている。眉山6合目には自然石を用い「阿淡二州太守族葬墓域」と題した明和3年11月付けの碑があり、一般に「墓域の碑」と呼ばれる。 1971年(昭和46年)大阪府大阪市天王寺区六万体町の国恩寺にあった家祖・正勝の墓を頂上付近に改葬した。 太平洋戦争前までは旧家臣団により維持管理され整備されていた。しかし、戦後になると管理するものも少なくなり、藩主の墓は比較的保存状態が良かったが、その他は荒廃している。特に一族の墓は1946年(昭和21年)の昭和南海地震で倒壊したそのままの状態になっている。徳島県は国の史跡に指定されたのを期に予算計上を行い、公有化・整備に向けて動いている。藩主の墓を中心に墓碑周囲の玉垣を修復し平唐門の復元作業などが行われている。
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